2016年03月14日

「北海道新聞」に「組み体操の思想」が載りました(2016年3月12日付)

「北海道新聞」(2016年3月12日付)の「各自核論」の欄に、「組み体操の思想」という文章が掲載されました。
日本の小中高の運動会で毎年おこなわれている組み体操が、負傷者が多発しているにもかかわらずやめられないのは、戦時中の日本軍の特攻や玉砕という思想と、どこか通底するものがあるからではないか、ということを世間論の視点から論じました。

 内容は以下の通りです。
 「昨年11月にパリで同時多発テロがおきた時に、フランスのメディアは自爆犯を「kamikaze」(カミカズ)と呼んだ。いうまでもなく戦時中の日本軍の特攻攻撃のことである。この報道を受け日本では、自爆テロと日本の特攻は「全く別物」との反発もあった。
 しかし私には、これが必ずしも根拠のない言いがかりだとは思えない。唐突に思われるかもしれないが、この時すぐに、全国の小中高で毎年実施されているピラミッドやタワーなどの組み体操のことを考えたからである。じつはこれでちょっとガクゼンとしたことがある。いま教えている大学の複数の授業で学生に聞いたところ、1クラス30人程度にもかかわらず、骨折を含め組み体操でケガした者が必ず2、3人いたことだ。
 日本スポーツ振興センターによると、2014年度で全国の組み体操による負傷事故が8592件。うち骨折が2095件もあるそうだ。過去には死亡例すらある。この数字が示しているのは、どんなに学校が安全策を講じても、組み体操では重大事故を含む負傷事故の発生を防げないということではないのか。つまり生徒は毎年間違いなくケガをする。たしかに跳び箱やバスケットでのケガも多いが、組み体操は個々の能力とは関係ないところで事故がおきる点がかなり違う。いったいなぜ、この危険な組み体操をやめられないのか。
 興味深いことにこの点について、監督官庁である文部科学省の義家弘介副大臣は、一月に新聞のインタビューに答えて、小6の息子が5〜6段の組み体操に参加したことに言及し、「息子は負荷がかかる位置にいて背中の筋を壊したが、誇らしげだった」と語り、「私自身がうるうるきた。組み体操はかけがえのない教育活動」だといっている。
 これまで組み体操が運動会や体育祭の最大の目玉として、親や教師から支持されてきた理由は、おそらくこのような「うるうるきた」という「感動」であり、生徒が困難に挑戦するときの「一体感」や「連帯感」や「達成感」であろう。義家さんの息子も負傷したそうだが、これが生徒のケガなどよりも、はるかに優先されてきたのだ。
 もともと西欧流の個人が存在しない日本の「世間」という人的関係では、自他の区別が曖昧であり、主客が容易に溶け合うことで、対象に過剰に感情移入し共感する「共感過剰シンドローム」の状態になりやすい。いったん「感動」や「一体感」の空気が醸成されると、批判を許さない強い同調圧力が生まれる。練習や本番で事故が多発しても、組み体操をやめられない理由は、この「共感過剰シンドローム」にあったのではないか。
 私が危惧するのは、それが戦時中の日本軍の特攻や玉砕という思想と、「命を粗末にする」という点で、どこか通底していることである。戦時中にこうした無謀な戦術を用いたのは、世界中で日本だけだったといわれる。この戦術を1980年代初めにイスラム過激派が「輸入」し、自爆テロとして世界中に広まったらしい。日本で特攻や玉砕の「命を粗末にする思想」が「英雄的行為」として、現在でも美化されることがあるのは、「世間」のなかに「感動」や「一体感」といった「共感過剰シンドローム」があるからである。
 2月末までに千葉県流山市など複数の自治体が、新年度からの組み体操の全面廃止を決めた。これまで国は規制しないとしてきた文科省も、今年度中に何らかの方針を示すらしい。この流れが定着すればいいと思うが、じつは問題の根は深い。怖いのは、いま潜在化している「命を粗末にする思想」が、この先日本でテロなど何らかの予期せぬ政治的事件がおきたときに、あからさまに復活する可能性がないとはいえないことである。
 このさい、組み体操をやめられない理由の根底にある「命を粗末にする思想」について、きちんと考えておくことが必要ではないかと思うのだ」。

posted by satonaoki at 15:11| NEWS