2016年07月24日

「北海道新聞」(2016年7月23日)に「義援金バッシング」がのりました。

 「北海道新聞」(2016年7月23日)の「各自核論」に、「義援金バッシング」が掲載されました。熊本地震のさいにネット上で「不謹慎狩り」がおこなわれ、タレントの紗栄子さんが義援金を出したことを公表したところ、これにたいして批判が噴出した問題をめぐって、日本ではなぜこのような不可解なバッシングがおきるのかを、世間学の視点から考えたものです。
 内容は以下の通りです。

      「出る杭」を超える勇気を−義援金バッシング

 4月の熊本地震のさいにタレントの紗栄子さんが、熊本県あてに約500万円の義援金を出したことを、振込受付書の写真を掲載して自身ネット上の写真共用アプリ「インスタグラム」で公表した。ところが、である。それにたいしてネットでは、一部から「わざわざ投稿する必要ないと思いますけど」「金額を言うのは下品」「偽善と売名のにおいがする」といった批判が噴出した。
 批判が匿名であるためにネットは無法状態となり、頻繁にこうした炎上がおきるようになっている。だがアメリカあたりだと、例えばマイクロソフト元会長のビル・ゲイツ氏は、財団までつくって巨額の支援や寄付を全世界におこなっていて、それが批判されることなどありえない話である。日本だと、なぜこのように不可解なバッシングがおきるのか。
 これで思い出したのは、以前にあった「タイガーマスク運動」である。「タイガーマスク」の主人公の伊達直人を名のって、2010年12月に前橋市の児童相談所にランドセルが贈られたのがきっかけとなり、それが翌年にかけて全国に連鎖的に拡大した。思うに、「タイガーマスク運動」がこれ程までに全国に広がったのは、その寄付のほとんどが、「伊達直人」などの匿名でおこなわれたからである。
 だとすれば、今回紗栄子さんがネットで叩かれたのは、彼女が具体的に金額を公表し、実名で寄付をおこなったからだ、と考えるしかない。
 もともと日本人は、電車やバスでお年寄りに座席をゆずったりするような、自分の「世間」に属していない他人にたいする、ちょっとした親切が苦手である。席をゆずったほうも、なんとなく照れてしまう。それは、「世間」がウチとソトを厳格に区別するために、ウチの人間である身内には自然に親切にできるが、ソトの人間である他人にはぎこちなくなるからだ。
 また「世間」には、「みんな同じ」という人間平等主義のオキテがあるために、独特の「ねたみそねみひがみやっかみ」意識が強い。身内に属さない「世間」のソトの人間にたいして、実名で何らかの寄付や援助をすることは、「目立つ」ことになり、それだけ「ねたみ」意識を刺激し、「出る杭は打たれる」ことになる。「伊達直人」のような匿名であれば、「ねたみ」の対象にならないから、叩かれずにすむ。だが、紗栄子さんが叩かれたのは、実名で寄付を公表する事によって、ネットで「出る杭」とみなされたからだ。
 さらにもう一つ。義援金などの寄付に「偽善と売名」というような強い抵抗感があるのは、「世間」に「贈与・互酬の関係」というオキテがあるために、「お返し」や「見返り」を期待できない「無償の贈与」が成り立ちにくいからである。
 西欧では、11・2世紀にキリスト教の普及によって、当時民衆の間にあった「贈与・互酬の関係」が否定され、「お返し」が禁止された。贈答慣行を否定するかわりに、それを神との関係に転換した。死後の救済を求める、教会への寄進はそこからはじまる。
 現世での「お返し」や「見返り」をもとめない「無償の贈与」が、西欧社会では博物館や美術館などの公共施設や、民間慈善団体などへの多額の寄付へとつながってゆく。ゲイツ氏の巨額の寄付の根底には、こうしたキリスト教の伝統がある。ところが日本では「タダより高いものはない」といわれ、「無償の贈与」がきわめて成り立ちにくい。実名での寄付が、「売名では」と勘ぐられるのはこのせいである。
 このままだと、ネットでいつ叩かれるか分からないリスクがあるため、寄付全体が萎縮しかねない。確かに「出る杭は打たれる」かもしれない。だが、アイドルグループのアンジュルムはこう唄っている。「出すぎた杭は打たれない」。いま必要なのは、この「出すぎた杭」になる勇気ではないのか。
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2016年07月03日

「青少年問題」(663号、2016年)という雑誌に論文がのりました。

一般社団法人・青少年問題研究会が発行する「青少年問題」(663号、2016年)の特集「なぜ、犯罪・非行は激減したのか」と、「自著を語る」のコーナーに論文などが掲載されました。

(1)「なぜ、日本では略奪も暴動もおきないのか-世間学の立場から-」は、世間学の立場から近年の少年犯罪の激減の理由を考察したもので、内容は以下の通りです。

   なぜ、日本では略奪も暴動もおきないのか−世間学の立場から−

                      佐藤 直樹 さとうなおき
                     (現代評論家・九州工業大学名誉教授)
      
    一 日本独特の「世間」を解析する世間学

 二〇一一年の東日本大震災のときに、海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然おこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所で冷静かつ整然と行動していたことである。いったいなぜなのか。
 私の答えは簡単で、それは日本には外国に存在しない「世間」があるからだ。「世間」には目に見えないさまざまな非公式ルールがあり、日本人は法に縛られるはるか以前に、このルールにがんじがらめに縛られている。震災のように警察や法が機能しない無秩序状態になっても、それがただちに略奪や暴動に結びつかないのはこのためである。
 この日本独特の「世間」のあり方を解析する学問が、二〇年以上前に歴史学者の阿部謹也によって提唱された世間学である。阿部はいう。日本は明治時代以降、科学技術や法制度や政治制度の近代化=西欧化には成功したが、人的関係の近代化には失敗した。人的関係をあらわす新しい輸入語として、一八七七年ごろsociety が社会と翻訳され、一八八四年ごろindividualが個人と翻訳されたものの、その実質が形成されなかったために、「世間」という伝統的・歴史的な人的関係が、現在まで連綿としてのこってきた、と。
 また阿部が示したもうひとつの重要なポイントは、世界史的にはこうした「世間」は八〇〇年ほど前のヨーロッパにも存在したが、キリスト教の支配や都市化などによって、それが個人から構成される社会という人的関係に変わった、ということである。日本ではキリスト教の支配といった歴史的経験がなかったので、個人や社会という言葉は存在しても、現在でもindividualやsociety 本来の意味とはまったく異なる使われ方をしている。
 先進工業国のうちで、これほど多く古い文物をのこしているのは日本だけである。そのため、明治時代に社会と共に輸入された近代法の考え方、例えば権利や人権という概念は、あくまでも外部から導入されたタテマエとしてしか機能せず、ホンネのところでは「世間」のルールが大きなチカラをもってきた。これは法律には書いていないが、一種の<共同幻想>として日本人を強く縛っている。
 この「世間」のルールをごく簡単に紹介しておくと、第一に「贈与・互酬の関係」がある。これは、「お返し」ルールとして、お中元・お歳暮に代表されるが、日本人はモノのやり取りを通じて人間関係を円滑にしてきたことを意味する。きちんと「お返し」ルールを守らなければ、その人間の人格評価にかかわるような致命的な問題となる。
 第二に、「身分制」のルールがある。近代法の原理は「法の下の平等」であるが、「世間」ではこれが通用せず、年上・年下、目上・目下、先輩・後輩、格上・格下など厳格な上下関係のルールがある。日本における差別の根源はここにあり、ママカーストやスクールカーストなどといった、現在でも身分をめぐる問題が生じるのはこのためである。
 第三に、「共通の時間意識」のルールがある。これは「みんな同じ」時間を生きていると考えるということである。「世間」では個人がタテマエにすぎず、「みんな同じ」ということが強調されるために、「出る杭は打たれる」という強い同調圧力が生じる。このルールから派生して、「世間」ではウチ/ソトの厳格な区別が生まれる。つまリ、ウチの人間にたいしては「身内」として親身に援助するが、ソトの人間にたいしては「あかの他人」や「よそ者」として何の関心ももたず、無視し、排除し、一切の援助をしない。
 第四に、「呪術性」のルールがある。「世間」は一〇〇〇年以上の歴史があるために、古い俗信・迷信のたぐいがきわめて多い。結婚式は大安の日に、友引の日には葬式をしないなどのルールは、法律に書いてあるわけではないが、日本人だったらみな守っている。また伝統的に、犯罪/犯罪者がケガレとして「世間」から排除されるのは、この「呪術性」の意識がその根底にあるからである。
 日本人にとって一番怖いことは、「世間」から排除されることである。「世間」から排除されないために、以上のようなルールを律儀に守らなければならない。他の先進工業国ではこうしたルールがないか、またはあっても希薄なために、非公式ルールより法のルールのほうが優先される。外国には、日本のような「世間」が存在しないからである。

    二 なぜ、犯罪率が低く自殺率が高いのか

 現在日本は先進工業国中、犯罪率は最も低いきわめて安全な国であるが、自殺率はきわめて高い不思議の国である。それは、「世間」の非公式ルールへの同調圧力が強大であることと、それによって人々が過度の自己コントロールを要求されるからである。つまり「世間」が犯罪を抑止し、自殺を誘発するような両義的な機能をもっているからである。
 「世間」はウチとソトを厳格に区別する。「世間」のウチにあっては、前記のような非公式ルールが存在し、日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じているために、そのルールにがんじがらめに縛られている。また個人が存在しないために、同調圧力がきわめて強い。このルールにしたがっている限り、居心地がよく、さまざまな援助を受けることができるので、A・ギデンズのいう「存在論的安心」を得ることができる。
 一方、いったん「世間」のソトへと排除されると、このルールにしたがう必要はなくなり、ある意味「自由」な存在となるが、「あかの他人」や「よそ者」として無視され、排除され、一切の援助が受けられない。日本人は「世間」のなかにいる限り「存在論的安心」を得れるが、「世間」から無視され排除されることは、社会的な死を意味する。近年目立つようになった、二〇〇八年の秋葉原無差別殺傷事件のような「ヤケクソ型犯罪」は、こうした「世間」のソトへの排除というメカニズムが根底にある。
 それにたいして西欧には「世間」は存在しない。存在するのは個人によって構成される社会である。小宮信夫はいう。日本人の間では「うち/よそ」(私の言葉では、ウチ/ソト)の二分法が鮮明だが、西洋人の間ではこの二分法が不鮮明で、「個人/社会」の二分法になっている、と。つまり、西欧ではウチ/ソトの区別が希薄で、「個人/社会」の二分法があるために、非公式ルールによる同調圧力がないか、あったとしてもきわめて弱い。言いかえれば、日本では人々は「世間」という集団からの介入を受けやすいが、西欧では個人と社会との境界が明確なので、社会という集団からの介入を受けにくい。
 さらにこれは、西欧の社会が小宮のいう「個人/社会」の二分法からできているために、「世間」というワンクッション抜きに、個人がむき出しのままで、社会のルールである法に直接さらされることを意味する。日本だったらさしあたり「世間」のルールで処理される個別の紛争が、西欧では「世間」が存在しないために、ただちに法のルールで処理されるしかない。西欧で権利や人権という概念が必要不可欠なのは、「世間」のルールが作動せず、法のルールを相互に承認しなければ、へたをすると「万人の万人に対する闘争」、つまり殺し合いになるからだ。
 日本ではこうした「世間」の非公式ルールが、<家族−学校−職場>といった<生活世界>のありとあらゆる空間を貫徹し、そこで目には見えないがきわめて細かなルールを叩き込まれる。つまり規律=訓練が日常的におこなわれる。その結果、日本人は「世間」のルールを守ることを通じて、きわめて強い自己コントロールをおこなうようになる。
 かくして、日本人のまわりには「世間」の非公式ルールというバリアーが張ってあって、西欧だったらノーマルだとみなされるような逸脱行為でも、あらかじめ抑止される。一方西欧であれば、「世間」が存在しないために、逸脱行為は法という公的バリアーにひっかかるまで抑止されない。それゆえ日本では、ちょっとした逸脱行為でも、「世間」のルールに反する行為として抑止される。ましてや犯罪ともなれば、極悪非道の行為として強く非難され、「世間」からの徹底した排除を受ける。これが日本では、圧倒的に犯罪の抑止力となっているのだ。
 こうした「世間がもつ防犯のメカニズム」について、河合幹雄はいう。諸外国と比較しても、日本は防犯という点で無防備といってよいが、盗むのが容易でも盗んだものが使えない。なぜかといえば日本の世間は、だれかが人知れず金持ちになることを許してくれないからだ。警察は、最近近辺で金遣いが荒くなった人間を探して「オマエダロ」とやる。つまり、世間の力と警察力が連携することによって、諸外国とは桁違いに犯罪の少ない社会が保たれている、と。
 「世間」が人知れず金持ちになることを許さないのは、そこに「共通の時間意識」にもとづき「みんな同じ」と考える人間平等主義があり、そのため独特の「ねたみそねみひがみやっかみ」意識が生まれるからだ。つまり、金持ちになり目立つことはまわりから強く妬まれるから、妬まれないように細心の注意を払わなければならない。これが同調圧力となって、人々は犯罪を避けるような過度な自己コントロールをおこなう。
 そしてこの過度な自己コントロールがあるために、危害のベクトルが他者より自己に向きやすい。先進工業国のうちで、日本が最低の犯罪率と高い自殺率を誇っているのは、外国には存在しない「世間」が犯罪を抑止し、自殺を誘発するという両義的な機能をもっているからである。

    三 少年犯罪の減少と「復活」する「世間」

 日本では一九九〇年代末ぐらいから、刑事司法における厳罰化が顕著になっている。検察官の求刑や裁判所の量刑の相場が引き上げられ、死刑や無期懲役の判決が増加し、刑法や少年法の改正が頻繁におこなわれている。これは歴史的にみて、明治時代の刑事司法の近代化=西欧化以降、時代を画するようなきわめて大きな出来事であるといってよい。
 じつはこのような厳罰化は、日本だけでなく他の先進工業国でも生じており、その背景には、第二次大戦後の犯罪発生率の急激な増加があった。ところが日本では、多くの研究者が指摘しているように、一九五〇年代から今日までの犯罪発生率は、多少のデコボコはあるとしても、一貫しておおむね減少傾向にある。
 一般にこの日本の厳罰化は、@「世間」のような共同体のつながりの希薄化、Aそれによる犯罪の増加・凶悪化、Bそれを防止するための厳罰化、という構図で説明されることが多い。しかし、犯罪は増加も凶悪化もしていないし、明治時代の近代化=西欧化とともにいずれ解体・消滅すると考えられた「世間」は、さまざまに意匠を変えることはあったが、現在にいたるまで解体も消滅もしていない。
私にいわせれば、いま日本で生じている厳罰化は、共同体のつながりが失われたことや、治安の悪化や犯罪の増加によるものではなく、もともとあった伝統的な「世間」が前景化したこと、つまり「世間」が「復活」したことによるものである。
 その背景にあったのは、一九九〇年代以降のアメリカ型グローバル資本主義の全面化、すなわち新自由主義の台頭であった。とくに日本では、この新自由主義の浸透と拡大によって、職場に成果主義が導入され、九七年には年功序列などの日本的雇用制度が崩壊したといわれ、さらに〇一年の小泉政権の誕生によって、規制緩和・構造改革が叫ばれた。
 もともと西欧流の「強い個人」を前提とする新自由主義が席巻することで、individualたる個人が存在せず、それとまったく異質の原理をもつ「世間」が、深刻なストレスをため込んでゆき、その結果「世間」のルールの肥大化と同調圧力の強化を招いた。つまり、それまで後景にあった「世間」が前景に登場し、「世間」の息苦しさや閉塞感が強まった。これが、職場におけるうつ病や過労死の増加をひき起こしたのである。
 前述のように「世間」はウチ/ソトを厳格に区別する。「世間」は「みんな同じ」であることを要求するから、それからはずれる犯罪/犯罪者を「異質なもの」とみなす。深刻なストレスをため込んできた「世間」は、いわばストレス解消のはけ口として、みんなと「同じ」ではない「異質なもの」を、「世間」のウチからソトへと排除する傾向を強めた。これが、九〇年代末以降の刑事司法における厳罰化の現象としてあらわれたのだ。
 同時にこれが、一種の「保守化」の動きとしてあらわれている。NHK放送文化研究所の意識調査によれば、七三〜九八年までは一貫して「伝統離脱」方向を向いていた日本人の意識が、九八〜〇三年の間に動きが鈍り、〇三〜〇八年の間に完全に逆転して「伝統志向」に変わり、この傾向は〇八年〜一三年の間に強まっている。しかもこの調査では、他の世代と比較して、若い世代ほど伝統志向が顕著だという。
 近年の犯罪発生率全体の減少傾向のなかで、とくに〇三年以降に少年犯罪が著しく減少していることが指摘されている。土井隆義は、〇三年あたりから日本人の意識が伝統離脱から伝統志向に変わる反転現象がおき、前近代的な意識が前面にせり出し、若者たちの世界でも、人間関係を円滑にするためにまめにプレゼントをしたり、あの世や来世やパワースポットを信じる人間が多くなっている、という。
 そして近年、経済状況がますます悪化しているにもかかわらず、少年犯罪が減少している理由について、「人生とは自らが努力によって切り拓いていくものではなく、むしろ自分の力の及ばないところで決まっているという感覚」、すなわち「宿命主義」とでもいうべき人生観が広がっているためであるとする。
 ここで土井が指摘しているような、若者のあの世や来世やパワースポットへの興味という伝統志向にせよ、運命決定論的な「宿命主義」にせよ、近年になって突然登場したものではなく、すべてもともと伝統的な「世間」がもっていたものである。「世間」には「呪術性」のルールがあるために、俗信・迷信のたぐいがきわめて多い。これが若者の間で、神秘的なものへの興味として「復活」しているのだ。
 また「世間」においては、「みんな同じ」と考える「共通の時間意識」があり、同調圧力が強く「出る杭は打たれる」ために、個人の主張を厳しく自己コントロールする。そのため、「しかたがない」という日本独特のあきらめの感情が生まれる。これが運命決定論的な「宿命主義」として、若者の間に広がっている。九〇年代末以降、「世間」が「復活」してきたために、こうした伝統回帰という逆転現象が生じたのである。
 以上のように、全般的な犯罪発生率の減少傾向のなかでの、〇三年以降の少年犯罪の著しい減少の根底にあったのは、伝統的な「世間」の「復活」であると考えられる。これは、前述の意識調査の結果に示されているように、「世間」の「復活」の影響が、とりわけ伝統志向を強める若い世代に、より顕著にあらわれた結果であるといえる。

〔引用・参考文献〕
阿部謹也『「世間」論序説』朝日選書、一九九九年
NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第八版]』NHKブックス、二〇一五年
鴻上尚史『「空気」と「世間」』講談社現代新書、二〇〇九年
河合幹雄『終身刑の死角』洋泉社新書y、二〇〇九年
小宮信夫『なぜ「あの場所」は犯罪を引き寄せるのか』青春新書、二〇一五年
Nobuo Komiya,“A Cultural Study of the Low Crime Rate in Japan ”, British Journal of Criminology, 39(3), 1999, pp.369-390.
佐藤直樹『犯罪の世間学』青弓社、二〇一五年
佐藤直樹『なぜ日本人はとりあえず誤るのか』PHP新書、二〇一一年
土井隆義『少年犯罪<減少>のパラドクス』岩波書店、二〇一二年
  
(2)「自著を語る」の内容は、以下の通りです。

                          佐藤直樹(さとうなおき)
                        現代評論家・九州工業大学名誉教授
 もともと私は、刑事責任能力や少年犯罪を専門とする真面目な(?)刑事法学者として、『大人の<責任>、子どもの<責任>』『刑法39条はもういらない』などといった本を書いてきた。しかし、三〇年以上大学で法律学を教えてきたが、法律学を真面目にやればやるほど、じつは日本人は法律を信じていないと思えてくる。やればやるほど、キルヒマンではないが、「法律学の学問としての無価値性」みたいなドツボにはまってしまう。
 例えば法律学で最も大事な概念は、権利や人権である。それは江戸時代には存在せず、明治時代にヨーロッパから輸入されたものであるが、現在でもさっぱり定着していない。日本人は法律よりもはるか以前に、外国には存在しない「世間」のルールにがんじがらめに縛られていて、権利や人権などの言葉は、外からつけ加わった建前にすぎないからだ。
 それで完全にグレてしまい、歴史学者の阿部謹也さんなんかと「日本世間学会」というプロジェクトを立ち上げ、本格的に世間学の研究を始めたのが一九九九年であった。その後現在まで世間学に関する本を七冊ほど出してきたが、最新刊の本書は、私の専門である刑事法学と世間学の、ちょうど交錯するところに生まれたものである。
 現在日本は先進工業国のなかでは、犯罪率が最も低いきわめて安全な国であるが、同時に自殺率はきわめて高い不思議の国である。つまり危害のベクトルが、他者より自己に向かっている。これは他の西欧諸国とはまったく異なっている。いったいなぜなのか。
 それは、日本の「世間」に細かなルールがあって、日本人はそれを守ることで「世間」から排除されないように細心の注意を払い、その結果過度の自己コントロールをおこなってきたからである。一言でいえば、この犯罪率の低さと自殺率の高さは、日本独特の「世間」の存在を考えないと説明がつかない、というのが本書での私の答えである。




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