2016年09月30日

10月21日(金)に日本文藝家協会主催の「文芸トークサロン」に出ます。

 10月21日(金)18時−20時に、日本文藝家協会主催の「文芸トークサロン」で、榎本博明さん(著述家、心理学博士)と対論します。質疑応答の時間もあります。場所は、東京都千代田区紀尾井町3番23号 文藝春秋ビル新館5Fです。テーマは「”みっともない”の美学−世間と日本人の行動原理」。
 以下、日本文藝家協会のホームページを引用します。
「常に世間の目を気にする日本人がよく口にする「みっともない」と「すみません」。この言葉をキーワードに、日本人の行動原理をめぐってのトークバトルを展開していただきます。多数の日本人論を書かれているお二人……「世間の目を気にする日本的感受性」について、むしろその効用を支持する心理学者と、「世間のオキテ」が日本人を不幸にしているとする刑法学者の対論です。質疑応答の時間も予定しています。」
 ホームページのアドレスは、
http://www.bungeika.or.jp/event.htm
 です。

 
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2016年09月29日

10月29日(土)開催の日本犯罪社会学会「テーマセッション」で報告します。

 10月29日(土)15時40分−18時10分に、甲南大学岡本キャンパスで開催される日本犯罪社会学会第43回大会の「テーマセッション」で報告します。
 セッションのテーマは「少年法適用年齢引き下げ」です。現在日本では、選挙年齢の引き下げに続き、成人年齢の引き下げや少年法の適用年齢の引き下げが議論されています。
 セッションでは世間学の立場から、A・ギデンズのいう「再埋め込み」をヒントにして、現在生じている刑事司法における「厳罰化」との関連で、少年法の適用引き下げ問題について報告する予定です。他の報告者は、土井隆義さん(筑波大学)、武藤謙治さん(九州大学)です。


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2016年09月01日

「消費者法ニュース」(108号、2016年)に「生活保護受給者とギャンブル」が掲載されました。

 「消費者法ニュース」(108号、2016年)という法律関係の雑誌に、「生活保護受給者とギャンブル−別府市による支給停止処分をめぐって−」という文章が掲載されました。2015年に別府市がパチンコ店などを巡回し、生活保護受給者を見つけた場合に、ギャンブルをおこなわない旨の指導をおこない、これにしたがわなかった者にたいして、受給停止処分をおこなっていたことが、2016年になって明らかになりました。結局受給停止は、県などの指導によって、今年度からは中止されました。が、ネット上を中心として、保護費をギャンブルに費消することについて、つよい非難がなされました。いったいなぜなのか。これを「世間」の観点から解析したものです。
 内容は以下の通りです。


   生活保護受給者とギャンブル−別府市による支給停止処分をめぐって−

                 現代評論家 九州工業大学名誉教授 佐藤 直樹

   (1)生活保護法の精神に反する支給停止
 昨年大分県別府市が、パチンコ店などに生活保護受給者がいないかを巡回調査し、受給者を発見した場合に、店に立ち入らないように指導し、これに従わなかった受給者にたいしては、医療扶助を除き支給停止の処分をおこなっていたことが明らかになった。同市ではこうしたことが、じつに25年以上続いてきたという。
 ところで私は、ギャンブル愛好者の皆さまにケンカを売るわけではないが、パチンコにも、競馬、競輪、競艇などの公営ギャンブルにも、まるで興味がない。興味がないから、こうした趣味にはしる人たちのキモチがよくわからない。
 それにこの問題の本質は、こうした商売が、ギャンブル依存症を大量に生み出す貧困ビジネスにほかならず、とりわけ公営ギャンブルなど、ヤクザ顔負けの国家的規模での悪徳ビジネス以外の何ものでもない、ということにあるのではないか。
 とはいえ、だからといって、受給者が生活保護費をパチンコや公営ギャンブルに費消することを法的に規制し、これに反したからといって支給を停止できるかといえば、それは無理筋というものだろう。なぜなら、まず明確なこととして、生活保護法にはパチンコなどのギャンブルを禁止する直接の規定は存在しないからである。
 それだけではない。同法2条は「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる」と宣言している。法があえて「無差別平等」を強調しているのは、かりに受給者が保護費をギャンブルに費消するような依存症であろうがなかろうが、法の要件さえ満たせば「無差別平等」に、どんな人間でも受給者となる資格と権利をもつということである。
 別府市による支給停止処分は、明らかにこの生活保護法の根本原則というべき「無差別平等」という法の精神に反する。今年になって厚労省と大分県が同市にたいして、この処分の是正を求め、停止処分が撤回されたのは、けだし当然であったといえる。
 ところが、である。別府市では「受給者が昼間からパチンコをしている」という市民の苦情が絶えず、停止処分にたいして市に届いたメールも、その9割以上が処分を支持する内容であり、ネット上でも「よくやってくれた」「これ全国でやれよ」といった声が少なくない。停止処分は、当局がこうした「世間」の空気を読んだ結果であるともいえる。
 いったい、なぜこうなるのか? 思うに、これには二つの理由がある。

   (2)なぜ、生活保護が権利とみなされないのか
 その理由の一つは、日本の「世間」では、生活保護は「国家による恩恵」であって、憲法25条の生存権にもとづく「権利」とはみなされないところにある。
 いうまでもないが、権利という概念は江戸時代にはなかった。それは、明治時代の近代化=西欧化の過程で1868年ごろに、right という言葉を輸入したさいに、新しく造語されたものである。それから約150 年ほど経過し、権利という言葉はふつうに使われるようになったが、現在でもまだ、本来の意味での権利が「世間」のなかに定着しているとは言い難い。
 right という単語を辞書でひいてみるとわかるが、「権利」の他に「正しい」という意味がある。つまり少なくとも英語圏では、「権利」をもつことはイコール「正しい」ということになる。しかし「世間」では「あいつは権利ばかり主張するイヤなやつだ」という言い方があるように、「権利=正しい」とは考えられていない。明らかにright と権利では意味が違う。つまり現在においても、権利は本来の意味では使われていない。
 日本の「世間」は1000年ほどの歴史をもつが、そこでは行動の基準として、西欧にあるような神にたいする「罪」の意識は希薄で、「世間」にたいする「恥」の意識がきわめて強い。日本人の生活保護を受給する場合の独特の心理的抵抗感は、「世間体が悪い」という「恥」の意識にその理由がある。日本人は、依然として伝統的な「世間」に強く縛られていて、この「恥」の意識は権利や人権より優先される。
 このように「世間」のなかでは、西欧流の権利という概念が通用しないために、生活保護の受給が、生存権という基本的人権にもとづく「正しい」権利の行使であるとはみなされない。それはあくまでも「国家による恩恵」にすぎない。
 そうなると、生活保護受給者は権利を行使する主体的な存在とはみなされず、あくまでも「恩恵」を受ける客体にすぎなくなり、ましてや保護費をさまざまなギャンブルに費消することなど、「恥を恥とも思わない」言語道断の行為ということになる。

   (3)生活保護バッシングの底流にあるもの
 もう一つの理由は、日本の「世間」では、「他人は他人、自分は自分」という西欧流の個人(individualの翻訳語)が成熟していないために、「みんな同じ」という「人間平等主義」のルールがあり、そこから生じる独特の「ねたみそねみひがみやっかみ」意識が強いからである。
ようするに「出る杭は打たれる」のだ。現実の「世間」にせよ「ネット世間」にせよ、受給者のギャンブルが徹底的に叩かれるのは、この妬み意識が受給者に向けられるからである。
 たとえば2012年におきた、母親の生活保護受給をめぐるお笑い芸人Kさんへの、メディアやネットでの大バッシングでは、受給が法的には何の問題もなかったにもかかわらず、Kさんは記者会見で「世間」への謝罪を強いられた。このバッシングの異様さは、Kさんの人気や年収などへの「世間」の妬み意識の強さを考えないと、説明がつかない。
 この強い妬み意識は、市民の相互監視に結びついている。「世間」を騒がすような不祥事がおきた時に、その報道を見て、自分にはとりあえず何の関係もないのに「迷惑をかけられた」と思い込み、わざわざ行政にチクったり、職場に抗議電話をかけたり、ネットで叩いたりする人間がかなりいる。「世間」には、お節介な人が多すぎるのである。
 とくに生活保護の問題になると、それに「自分たちが納めた税金が使われている」という「不平等感」「不公平感」が加わる。これが共感をよび、圧倒的なバッシングの空気が醸成される。空気の同調圧力には誰も逆らえない。別府市は、まさにこの空気を読んだのである。
 以上のように、受給者のギャンブルが徹底的に叩かれるのは、もともと「世間」では権利や人権という概念がまったく通用せず、さらに人々の間で強い妬み意識があるからである。そうした意識は、日本でのグローバル化=新自由主義の浸透と拡大以降、人々が競争的環境に叩き込まれた、ここ15年くらいの間にますます強まっている。
いま考えなければならないのは、こうした「世間」のあり方そのものを根底的に問い直すことである。


posted by satonaoki at 14:05| NEWS