2017年02月05日

「北海道新聞」(2017年2月4日)に「夫婦の姓と『世間』」が載りました。

 「北海道新聞」(2017年2月4日)の「各自核論」のコーナーに、「夫婦の姓と『世間』」という評論が掲載されました。昨年10月に東京地裁が「職場ではすべからく戸籍名を使え」というとてつもなくヘンな判決を出したことについて、「『世間』の無意識における女性差別」という視点から考察したものです。
 まあ、ぶっちゃけていえば、裁判所もボーイズ・クラブなんですね、ということです。
 内容は以下の通りです。


 ● 夫婦の姓と「世間」−無意識の中に女性差別−
                         
 とにかくヘンとしかいいようのない判決だ。日大第三中学・高校(東京)の30代の女性教諭が、職場で結婚後に戸籍姓を強制されたとして、旧姓使用と慰謝料を求める訴訟をおこしたが、東京地裁は昨年10月、請求を棄却したのである。現在、東京高裁で控訴審が行われている。
 地裁判決は、職場において戸籍姓の使用を求めることに合理性、必要性が認められるし、通称としての旧姓使用は、社会に根付いているとは認められないとして、学校側に違法行為はないといっている。つまり、職場ではすべからく戸籍名を使えということだ。
 では夫婦はそもそも、「同姓」でなければいけないのか。じつはこの問題については、15年12月に最高裁大法廷が、夫婦同姓を定めた民法の規定は憲法に違反しないとしている。だが面白いことにこの判決では、姓を改める者の不利益について、「妻となる女性が不利益を受ける場合が多いと推察できるが、姓の通称使用が広まることにより一定程度は緩和されうる」という内容の文言をつけ加えている。
 最高裁がこうした言い訳をしなけれはならなかったのは、社会に通称使用が広がっているという現実を無視できなかったからであろう。そして、東京地裁の判決にしたがえば通称使用は認められず、女性の不利益は緩和されないわけだから、論理的にいってこの判決は、最高裁判決のこの部分に楯突いていることになる。
 通称使用の広がりという点では、じつはこの日大第三中学・高校の周辺の学校でも、ほとんどが日常業務での旧姓使用を認めているという。これを認めたところで、なにか混乱がおきるとも思えない。にもかかわらず、これほどまで頑なに裁判所が旧姓使用を認めたがらないのは、いったいなぜなのか。
 海外では「同姓」「別姓」「結合姓」を選択できるのがほとんどで、日本のように「同姓」のみを法的に強制する国は存在しない。日本は世界的には、完全に孤立したガラパゴスなのである。しかも不思議なことに、結婚時に夫の姓になるのがじつに96%で、大多数の女性の姓が結婚後に変わる。
 そのため旧姓使用の要求は、もっぱら圧倒的な不利益を受ける女性の側の問題となっている。私の周りをみても、とくに女性研究者の場合に、姓が変わると同一人物と認識されなくなる可能性があり、キャリアが切れて、研究業績の評価に影響しかねない。
 そうなるのは、日本の「世間」では同調圧力がきわめてつよく、夫婦の姓を選択するときに、「みんなはどうしているだろうか」という基準で考えるからである。「出る杭は打たれる」ために、大多数が夫の姓になる。この構造は、ほとんど意識されることがない。いわば「世間」の無意識の中に、強固な性差別が刷り込まれているのだ。
 例えば、昨年10月に「世界経済フォーラム」(WEF)が発表した男女の平等度を示す「ジェンダー・ギャップ指数」では、日本は調査対象の一四四カ国中なんと一一一位である。これは06年に調査が始まって以来、最悪の数字であるという。しかしこの数字を示されても、おそらくほとんどの人が実感をもてないのではないか。
 実感できないのは、差別が「世間」の無意識となっているからである。日本では法的な「家制度」は戦後なくなったが、依然として結婚は個人のものではなく、「嫁をもらう」「夫の家に嫁ぐ」というように、女性差別的な「いえ」の考えが執拗に残っている。
 こうした差別的な空気が「世間」を支配しているために、裁判所もそれと無縁ではありえない。旧姓使用を頑なに認めないのは、裁判官も「世間」の一員だからである。いま必要なことは、差別が刷り込まれている「世間」の無意識を、徹底的に意識化することである。(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれ。専門は世間学、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など。


posted by satonaoki at 08:22| NEWS