2017年11月14日

「西日本新聞」(2017年10月28日)に「2017年衆院選 選択の時を終えて」が掲載されました。

2017年10月28日の「西日本新聞」に、「2017年衆院選 選択の時を終えて−世間学の立場から−」が掲載されました。
今回の総選挙の結果について、「言葉の軽さ」と「空気」という二つのキーワードを挙げて、世間論から考えてみたものです。
 内容は以下の通りです。

 ● 言葉の軽さ 「集団転向」 急速に進む政治の劣化 空気によに世間の反転 すでに〈戦時〉にあるのか

 600億円もの税金を投入し、いったいなんのための解散だったのか、最後までさっぱり分からない選挙であった。民進党の分裂による自民党の大勝、希望の党の失速、立憲民主党の大健闘、という今回の衆議院選挙。これをどう見たらよいのか。
 私は5年前に本紙(12年12月22日付)で、民主党から自民党に政権交代した総選挙について論じた際、「言葉の軽さ」と「空気」という二つのキーワードを挙げておいた。今回の総選挙の感想もこれと変わりない。しかしそれにしても、この5年間で、日本の政治のあり方の劣化が急速に進んでいると感じる。
 「言葉の軽さ」という点では、各党の「政権公約」もひどいと思うが、政治家が語る言葉が、ますます口からでまかせ・その場しのぎ・ご都合主義になっている。つまり政治家のいう事が、信じがたいほどコロコロ変わり、まったく信用できなくなっている。
 特に、公示前に小池さんと前原さんが合意して、まがりなりにもかつて政権を担当した民進党が一夜にして消滅し、希望の党に吸収合併されたのには驚いた。民進党は安保法制や改憲に反対した党のはずであるが、ここで起きたのはいわば公然たる「集団転向」である。それまでのかれらの理念政策は、いったいどこにいったのか。
 欧米の政治家がこれをやったら、一発レッドカードで政治生命を失うことになるだろう。キリスト教の強い影響下にある欧米社会では、表明された言葉は絶対であり、嘘をつくことは神にたいする「罪」になるからである。しかし、多神教的な「世間」が支配する日本では、客観的で絶対的な基準がないために、「世間」の空気が判断の基準となる。
 つまり空気が変われば、それに合わせて理念政策も変わる。しかも政治家の言葉がコロコロ変わっても、「世間」もすぐに忘れてしまい、ほとんど責任を追求されることもない。希望の党成立直後に、「世間」の空気は圧倒的に小池さん支持に傾いていた。それ故、この空気を読んだ民進党の議員は、雪崩を打って「集団転向」するしかなかったのだ。
 かくして選挙はますます、激変する「世間」の空気に左右されるようになった。希望の党支持の空気をひっくり返したのが、小池さん自身の安保法制や改憲に反対する者の「排除」発言である。オウンゴールともいうべきこの「上から目線」発言に、「世間」がドン引きして、一夜にして空気が変わり、希望の党への期待が急速にしぼんだ。
 じつは、「世間」が「上から目線」を極端に嫌うのは、そこに才能や能力の差を認めない一種の「人間平等主義」があるからである。本来対等で平等であるべき人間を、小池さんは権力でもって「排除」しようとしたと、「世間」は見なしたのだ。
 皮肉なことに、これは小池さんが自分の理念政策を貫こうとしたことで起きた。もし彼女が理念政策など度外視して、まるごと民進党を引き受けるといっていたら、おそらく「世間」は圧倒的に支持したと思う。それが反転して、判官贔屓的心理も加わり、「世間」の支持は、「排除」された側の立憲民主党に一気に流れることになったのである。
 昨今の北朝鮮のミサイル発射で、Jアラートの薄気味の悪い「空襲警報」のサイレンを聞かされるたびに私が思うのは、この国はすでに<戦時>にあるのではないかということだ。改憲勢力の大連立が、いよいよ現実味を帯びてきた。戦前の大政翼賛会体制を思い出すような選挙結果が示しているのは、まさにこの<戦時>ということではないのか。

posted by satonaoki at 10:30| NEWS

「東京新聞」(2017年10月27日)に、インタビュー「成果主義 考え直す時」が掲載されました。

2017年10月27日「東京新聞」に「成果主義 考え直す時」というインタビュー記事が掲載されました。「揺らぐものづくり」という表題の緊急インタビューの一つとして、昨今のものづくり企業の不正が相次いで発覚している理由について、世間論から答えたものです。
私の考えでは、これは、90年代末に導入された新自由主義=成果主義が、会社という「世間」的人間関係のあり方と齟齬をきたしていることにその原因があり、今後は日本人の感覚になじむ雇用制度を再構築しなければならない、と主張しました。
聞き手は経済部の木村留美さん。1時間以上話した内容を、手際よくまとめてくれました。
posted by satonaoki at 10:20| NEWS

「北海道新聞」(2017年10月14日)に「改元と歴史意識」が掲載されました。

2017年10月14日「北海道新聞」の「各自核論」のコーナーに「改元と歴史意識」が載りました。19年に天皇の退位にともなう改元がおこなわれることになったが、この際、元号を使うのはもうやめたらどうか、と主張したものです。
内容は以下の通りです。


  ●元号の使用 見直す機会に

 昨年8月に天皇の生前退位の意向表明があり、2019年の元日(または4月1日)には皇太子が即位して、元号が変わることになりそうだ。私は、とくに公文書では元号を使うべきでないと思っている。理由は、それが無用の不便や混乱をひき起こすからである。
 たとえば元号表記だと、明治20年と平成10年の間で何年間経過したのかは、いちいち西暦に換算するなどしないと分からない。また、たんに「10年」といわれたときに、それが2010年なのか平成10年なのか、にわかには判別できない。さらに私の運転免許証には、「平成31年02月08日まで有効」と書いてある。この年の元日に改元が実行されれば、免許の有効期限の日は永久に来ないという奇妙なことが起きる。
 とはいえ、元号の使用がはらむ問題は、たんに不便や混乱といった便宜的なものにとどまらない。私が最も危惧するのは、「一世一元の制」(元号法)に基づく元号の使用によって、歴史や時間の流れが唐突に、しかも無意味に切断されることである。つまり元号は、日本人の歴史意識のあり方と密接に関わっている。
 そもそも日本人は忘れっぽい。日本の「世間」の暦を眺めてみると分かるが、「元日」「七草」「節分」「ひな祭り」「彼岸」「花見」「端午の節句」「七夕」「お盆」「月見」「大晦日」など、年中行事といわれるものが年間を通じて続く。これらは、一年で完結し毎年くり返されるがゆえに、年単位の「円環的時間」という閉じた時間意識のなかにある。
 じつはこの時間意識がきわめて特異なのは、大晦日と元日の間に決定的断絶があることだ。日本人は、12月には「忘年会」を開いて、集団で一年の歴史的出来事を忘却し、大晦日の除夜の鐘とともにすべてチャラにした上で、元旦には「明けましておめでとう」といって新しい年を迎える。社会学者の内田芳明さんは、これを「非歴史化、無歴史化」と喝破するが、ここには歴史意識の明らかな断絶がある。忘れっぽいのは、このためなのだ。
 これにたいして西暦を生み出した西欧社会の時間意識は、キリストの生誕を基準として、2000余年の「直線的時間」の上にある。西欧にもクリスマスや復活祭のような毎年くり返される行事はあるが、それは2000余年持続する歴史的過程のなかにある点で、「世間」の年中行事とは決定的に異なる。つまり西暦では、キリスト生誕からの長い歴史の流れを意識せざるをえない。歴史意識が一年で断絶することはないのだ。
 もちろん、歴史的出来事を一年でチャラにして、「水に流す」ことが必要な場合もあろう。しかし問題は、「円環的時間」でモノを考えると、1年ごとに歴史が分断されてしまい、歴史を過去から未来にわたって、長期的に捉えるのがむずしかくなることだ。そのため日本人は、過去の歴史の総括の上に立って、未来にわたり長期的な展望を描くことが苦手である。
 ちなみに、お役所の文書で長期の予想を示す場合に、「平成70年度」といった表記をみかける。これなど悪い冗談としかいいようがないが、お役所が日本の未来を本気で考えているとは思えない。ようするに、歴史の流れを切断する元号の使用が、日本人の「円環的時間」の意識をますます強固にし、未来への長期的展望を描くことを妨げてきたのだ。
 元号の使用は、法的に強制されているわけではない。だが現在でもお役所の公文書では、事実上元号表記が強制されている。改元というせっかくのチャンスが到来するのだから、このさい公文書においては、西暦表記に統一すべきだと思う。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれの現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など多数。近著に「目くじら社会の人間関係」。










posted by satonaoki at 10:06| NEWS