2018年02月24日

「ダ・ヴィンチニュース」(2018年2月1日)というサイトで『目くじら社会の人間関係』が紹介されました。

 2018年2月1日付「ダ・ヴィンチニュース」というサイトにおいて、「「不謹慎狩り」の正体…「空気読め」が猛威をふるう日本」という表題で、『目くじら社会の人間関係』が紹介されました。
 以下でご覧になれます。
 https://ddnavi.com/review/433772/a/
 なお内容は以下の通りです。 

 「不謹慎狩り」の正体…「空気読め」が猛威をふるう日本
『目くじら社会の人間関係(講談社+α新書)』(佐藤直樹/講談社)

 2016年4月の熊本地震のときにネット上で起こった、「不謹慎狩り」と呼ばれる一連のバッシング騒動を憶えているだろうか。義援金を寄付したことをSNSで報告した著名人が、「大変な状況にある被災者を利用して売名行為をしている」などと批判され“炎上”したことも問題となった。インターネットの普及により誰もが匿名で容易に発言できるようになったことが原因であると考えられているが、そもそもこのような「オカシナ」問題が発生するのは、日本独自の精神性に起因する部分が大きいという。

 ネット時代の到来で、一億総「目くじら社会」となってしまった日本には、何とも言えぬ息苦しさを感じる。日本社会が窮屈になってしまった原因を解き明かし、気楽に世間を渡る術を説く新書『目くじら社会の人間関係(講談社+α新書)』(佐藤直樹/講談社)をご紹介したい。著者の佐藤直樹氏は、日本独自の「世間」の研究の第一人者である。

■「世間」は日本にしか存在しない

 東日本大震災や熊本地震の際に、海外のメディアは「こうした災害時であっても日本では略奪や暴動が発生しない」と、こぞって称賛した。日本がこのような面で世界から見ると特別なもの(私たちはごく当たり前に感じていても)に映るのは、「世間」は世界中を探しても日本にしか存在しないからだと著者は説く。

 日本には海外に存在しない「世間」があり、日本人はそれにがんじがらめに縛られているため、略奪や暴動を起こせない。反対に海外では「世間」のルールが存在しないため、災害などで警察が機能せず「法のルール」が無効となったときに、直ちに略奪や暴動などの違法行為に結びつきやすいのだ。この「世間」は、英語圏はおろか、同じ儒教圏の中国や韓国なども含め、現在はどこにも存在しないという(過去ヨーロッパにも「世間」が存在したことや、それが消滅した経緯も本書では解説されている)。

■出る杭は打たれる日本。有名人の炎上から考える

 略奪や暴動が起こらない理由が「世間」によるものならば、「世間」とは良いシステムであると感じてしまいそうになるが、「世間」は実に厄介な側面も多く併せ持っている。冒頭に述べた著名人の寄付に対するバッシング以外にも、震災後に笑顔の写真をSNSにアップした女優が「不謹慎だ」と批判されたりと、「自粛ムード」の中では、ありとあらゆる「不謹慎狩り」が猛威をふるっていた。熊本市内に住む女性が震災後に投稿した「ビールなんか買いに行ったら、こっち(熊本)の人に『不謹慎』って言われて噂が立つけん」という呟きが、この一連のバッシングがいかに病的であるかを物語っていると話題になった。

 自腹を切って寄付をする者がバッシングされるなんてことは、「世間」のない海外ではまず考えられないと著者はいう。その原因は、日本の「世間」にあるのだ。「自粛ムード」の中でKY(空気読め)と言われないために、日本人は「世間」の空気に対して常にアンテナを張っていなければならないのだ。

 上記以外にも、「犯罪率が低く自殺率が高い日本」「アイドルとヤクザに権利はあるか」「浦和レッズの聖地で分かること」など、著者独自の鋭い視点で、津々浦々にわたって「世間」に支配された窮屈な日本社会の現状が解説されている。「目くじら社会」を飄々と生き抜くために、現代日本人必読の1冊といえよう。

文=K(稲)

posted by satonaoki at 13:35| NEWS

「西日本新聞」(2018年1月21日)に『目くじら社会の人間関係』の書評が載りました。

 2018年1月21日付「西日本新聞」朝刊で、『目くじら社会の人間関係』が紹介されました。
 以下のサイトでご覧になれます。
 https://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_kyushu/article/387966/
 なお、内容は以下の通りです。

 熊本地震被災地への義援金の額をネットで公表したタレントや、子どもが逮捕された女優、母親が生活保護を受けていたことを公表されたお笑い芸人らに対する激しいパッシング。どこかおかしくないか。著者は、「一億総目くじら社会」化が進行していると指摘し、その理由を「世間」に求める。日本は「世間」が社会を支配しており、「世間」のルールに反するものは、たとえ法的に問題なくても、厳しく指弾されてしまう。この傾向は、グローバル化へのいわば防衛反応として1990年代から見られるという。「世間」のルールを吟味して問題点を突き、厳しい「世間」を変える道を探っている。著者は九州工業大名誉教授。
=2018/01/21付 西日本新聞朝刊=

posted by satonaoki at 13:21| NEWS

2018年02月12日

「北海道新聞」(2018年2月10日)に「『インスタ映え』考」が掲載されました。

 「北海道新聞」(2018年2月10日)の「各自核論」のコーナーに、「『インスタ映え』考」が掲載されました。2017年新語・流行語の年間大賞となった「インスタ映え」について、世間論から批判的に考察したものです。
 内容は以下の通りです。

   「インスタ映え」考−世間体に翻弄される日常−

   昨夏の出来事である。東京・南青山にある小洒落たカフェで、昼飯にオープン・サンドを食した。これがパンの上に肉や野菜などの具材がてんこ盛りのシロモノで、たしかに見栄えがよく美味そうにはみえた。だが、用意されたナイフやフォークは殆ど役に立たず、手づかみで食べようとしても、上の具材がボロボロこぼれてえらく食べにくい。
 おいおい。これを一体どうやって食えというのか。不思議に思ってまわりを見渡すと、お客は食べる前にスマホで、料理の写真をぱちぱち撮りまくっている。ん? この時は、腹立たしいばかりで気がつかなかったのだが、その後2017新語・流行語の年間大賞に「インスタ映え」(写真共用アプリ「インスタグラム」に投稿した写真の見栄えが良いこと)が選ばれたことで、遅ればせながらやっと分かった。
 ようするにインスタ映えのためなら、どんなに食べにくくとも(極端な場合、食べずに捨てても)べつに構わないということなのだ。若者の間では、1人なのにデートを装って飲み物を2人分注文して写真を撮るなど、「盛る」ことも当たり前らしい。いちいち目くじらを立てるような事でないのかもしれないが、私はこれに薄気味悪さを感じる。
 思うにインスタ映えの根底にあるのは、「私を見て、見て」という自己顕示欲だけでなく、自分の仲間から認められたいという強い承認欲求である。なぜなら、自分の価値の評価が、個人の内側から生まれるのではなく、もっぱら「いいね」マークの数といったような、仲間からの承認の多さで決まるからだ。
 近年パソコンやスマホの普及でネット社会が定着し、誰もがブログやツイッター等で手軽に発信できるようになった。しかも、自分の評価が数値で客観的に測定可能となったために、「いいね」を集めることが最重要課題となり、承認欲求がますます肥大化している。
 もちろん他人から認められたいという程度の事なら、昔も今も、大なり小なり誰にでもあると思う。しかし私が気になるのは、こうした承認欲求がとくに若者の間で、いまや強迫的といえるぐらいに広がっていることだ。
 たとえば、06年頃からネットなどで話題になった「便所飯」という言葉。これは、大学などの食堂で一人で昼飯を食べていると、「あいつは一緒に食べる友人がいないかわいそうなヤツだ」とまわりから思われるのがイヤで、トイレの個室で食事をすることである。一見奇妙に思えるかもしれないが、若者にとって仲間からの承認が、いかに切実な問題になっているのかがよく分かる。
 じつは若者に限らず、もともと日本人は西欧流の個人ではないために、「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じている。それ故、「世間」からつまはじきされることを最も恐れる。また「世間」の中に自分が組み込まれて、場所を与えられることで初めて安心できる。日本人が、肩書などの社会的身分に極めて敏感なのはそのためである。
 承認とは、「世間」に自分の居場所があるということだ。その結果、つねに「世間」から承認され、評価されていないと不安になる。インスタで見栄えの良いように「盛る」のは、他人から良く評価されたいという、まさに「世間体」を考えてのことであろう。
 「世間体」に縛られているということは、それだけ「世間」からの強い同調圧力を感じているということでもある。「KY」(空気が読めない)は、07年の新語・流行語大賞にエントリーされた言葉だが、この種の同調圧力は近年ますます猛威をふるっている。インスタ映えの流行は、これに翻弄される私たちの日常そのものを象徴しているといえる。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれの現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など多数。近著に「目くじら社会の人間関係」。






posted by satonaoki at 16:26| NEWS