2018年02月12日

「北海道新聞」(2018年2月10日)に「『インスタ映え』考」が掲載されました。

 「北海道新聞」(2018年2月10日)の「各自核論」のコーナーに、「『インスタ映え』考」が掲載されました。2017年新語・流行語の年間大賞となった「インスタ映え」について、世間論から批判的に考察したものです。
 内容は以下の通りです。

   「インスタ映え」考−世間体に翻弄される日常−

   昨夏の出来事である。東京・南青山にある小洒落たカフェで、昼飯にオープン・サンドを食した。これがパンの上に肉や野菜などの具材がてんこ盛りのシロモノで、たしかに見栄えがよく美味そうにはみえた。だが、用意されたナイフやフォークは殆ど役に立たず、手づかみで食べようとしても、上の具材がボロボロこぼれてえらく食べにくい。
 おいおい。これを一体どうやって食えというのか。不思議に思ってまわりを見渡すと、お客は食べる前にスマホで、料理の写真をぱちぱち撮りまくっている。ん? この時は、腹立たしいばかりで気がつかなかったのだが、その後2017新語・流行語の年間大賞に「インスタ映え」(写真共用アプリ「インスタグラム」に投稿した写真の見栄えが良いこと)が選ばれたことで、遅ればせながらやっと分かった。
 ようするにインスタ映えのためなら、どんなに食べにくくとも(極端な場合、食べずに捨てても)べつに構わないということなのだ。若者の間では、1人なのにデートを装って飲み物を2人分注文して写真を撮るなど、「盛る」ことも当たり前らしい。いちいち目くじらを立てるような事でないのかもしれないが、私はこれに薄気味悪さを感じる。
 思うにインスタ映えの根底にあるのは、「私を見て、見て」という自己顕示欲だけでなく、自分の仲間から認められたいという強い承認欲求である。なぜなら、自分の価値の評価が、個人の内側から生まれるのではなく、もっぱら「いいね」マークの数といったような、仲間からの承認の多さで決まるからだ。
 近年パソコンやスマホの普及でネット社会が定着し、誰もがブログやツイッター等で手軽に発信できるようになった。しかも、自分の評価が数値で客観的に測定可能となったために、「いいね」を集めることが最重要課題となり、承認欲求がますます肥大化している。
 もちろん他人から認められたいという程度の事なら、昔も今も、大なり小なり誰にでもあると思う。しかし私が気になるのは、こうした承認欲求がとくに若者の間で、いまや強迫的といえるぐらいに広がっていることだ。
 たとえば、06年頃からネットなどで話題になった「便所飯」という言葉。これは、大学などの食堂で一人で昼飯を食べていると、「あいつは一緒に食べる友人がいないかわいそうなヤツだ」とまわりから思われるのがイヤで、トイレの個室で食事をすることである。一見奇妙に思えるかもしれないが、若者にとって仲間からの承認が、いかに切実な問題になっているのかがよく分かる。
 じつは若者に限らず、もともと日本人は西欧流の個人ではないために、「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じている。それ故、「世間」からつまはじきされることを最も恐れる。また「世間」の中に自分が組み込まれて、場所を与えられることで初めて安心できる。日本人が、肩書などの社会的身分に極めて敏感なのはそのためである。
 承認とは、「世間」に自分の居場所があるということだ。その結果、つねに「世間」から承認され、評価されていないと不安になる。インスタで見栄えの良いように「盛る」のは、他人から良く評価されたいという、まさに「世間体」を考えてのことであろう。
 「世間体」に縛られているということは、それだけ「世間」からの強い同調圧力を感じているということでもある。「KY」(空気が読めない)は、07年の新語・流行語大賞にエントリーされた言葉だが、この種の同調圧力は近年ますます猛威をふるっている。インスタ映えの流行は、これに翻弄される私たちの日常そのものを象徴しているといえる。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれの現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など多数。近著に「目くじら社会の人間関係」。






posted by satonaoki at 16:26| NEWS