2019年02月02日

「文藝家協会ニュース」(2019年1月号)に、「世間を語ることの難しさ」が掲載されました。

 私も会員になっている日本文藝家協会が発行する「文藝家協会ニュース」(No.788 2019年1月号)に、「世間を語ることの難しさ」というエッセイが掲載されました。
内容は以下の通りです。

世間を語ることの難しさ
佐藤 直樹
「日本世間学会」というプロジェクトを99年に立ち上げて以来、ここ20年ぐらい「世間」について考えている。世間は英語に翻訳できない。世間は日本にしかない。そう主張すると決まって出てくるのが、「世間はどこの国にもあるのでは?」という批判である。
 17年9月に当会の「文芸トークサロン」で、「 "忖度" はなぜ英語にできないのか」というテーマで話す機会を得た。「忖度」が流行語大賞になった年だ。興味深いのは、森友学園の籠池泰典前理事長が、外国人特派員協会の会見でこの言葉を使ったさいに、通訳が「推測する surmise」「行間を読む reading between the lines」など苦労して訳そうとするのだが、結局「直接言い換える言葉はありません」とサジを投げたことだ。
 忖度は「他人の気持ちを推察する」ということで、世界中どこにでもあると考える人が多いと思う。だが私にいわせれば、これは、「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して行動する」という特殊な意味をもつ、日本独特の「世間のルール」の一つである。英語圏には世間がないため、忖度は存在しない。英訳できないのはそのためなのだ。
 そう説明しても、なかなか納得してもらえない。先日の世間学会でも私の報告に対して、「世間は英語圏にもある。例えば、What a small world !(世間は狭い)のworld が世間である」との批判があった。たしかに、英語の辞書を見るとそう書いてある。
 最近、韓国語の通訳者から面白い話を聞いた。日本で世間は「世間さま」といい、一つの人格のように考えられているが、これにあたる韓国語がないため訳せない、と。なるほどね。私は韓国にも世間はないと思っているが、英語のworld にも人格的な意味はない。「世界さま」という言い方はありえないからだ。つまり worldと世間はかなり違う。
 たぶん、それでもなかなか理解してもらえない。世間は私たちの頭の中に無意識に刷り込まれた共同幻想なので、これを論じることの難しさをひしひしと感じている。
(現代評論家・九州工業大学名誉教授)





posted by satonaoki at 17:03| NEWS