2020年05月26日

「北海道新聞」(2020年5月14日)に「日本の死刑制度 内向きの「当たり前」見直せ」が掲載されました。

 2020年5月14日「北海道新聞」の「各自核論」のコーナーに「日本の死刑制度 内向きの「当たり前」見直せ」が掲載されました。
 内容は以下の通りです。
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 19名もの施設利用者の命が奪われ、戦後最悪の大量殺人事件となった「津久井やまゆり園」事件。3月30日に被告は弁護人の控訴を取り下げ、死刑判決が確定したが、驚くのは、判決をめぐって死刑制度の是非についての議論がほとんどなかったことだ。
 このような凶悪事件への死刑適用は当然だと考える人が多いかもしれない。だが、なぜ議論が起きないのか、私は大きな違和感をもつ。死刑事件は必ず裁判員裁判となるのだから、けっして私たちに無縁ではない。いまこそ徹底した議論が必要なのではないか。
 海外に目を転じれば、いまや死刑廃止・停止国が圧倒的多数である。EU(欧州連合)は死刑制度を廃止しないと加盟できない。OECD(経済協力開発機構)の加盟国のうち死刑制度を存置しているのは、韓国、米国、日本だけである。しかもその中で韓国は、1997年以降執行をせず停止国とみなされている。米国は約半分の州が廃止・停止している。国連等の国際機関による日本政府への廃止・停止の勧告も少なくない。
 にもかかわらず先進国の中では、この国だけが廃止・停止の気配がまるでない。2014年の内閣府の世論調査によれば、「死刑もやむをえない」が80・3%。「死刑は廃止すべきである」が9・7%である。ただしこの調査にはかなり問題があって、死刑が「やむをえない」と質問するのなら、死刑は「廃止すべき」ではなく「廃止もやむをえない」と聞くべきだ。質問自体が、死刑存置論に有利なように誘導的な内容になっているのだ。
 とはいえこの国では、他の先進国とは異なり、死刑が人々から圧倒的に支持されていることはたしかである。この圧倒的な支持の理由はいったい何なのか?
 この点できわめて興味深いのは、作家の辺見庸さんの議論である。彼はその死刑廃止論の中で、東京拘置所において、刑場の位置および死刑囚が立たされる場所が、丑寅(北東)つまり鬼門の位置にあり、それは「穢(けが)れが立つ場所」であって、これが「他の死刑存置国とはあきらかに異なるところ」だと指摘している。
 思うにこの国は、先進国の中では異様に古い文物を残している唯一の国である。葬式のさいに「清めの塩」を渡され、それを家の玄関に入る前に身体にふりかけるのは、死がケガレとみなされ、塩がそれを祓うと信じられているからだ。こうした呪術的とでもいうべき古い習慣が牢固として残っており、ふだんは意識されないが、枚挙にいとまがない。
 これと関連して私があ然としたのは、海外からの日本政府への批判に対して、2002年に森山眞弓法務大臣(当時)が、「欧州評議会オブザーバー国における司法と人権」という国際会合のなかで、死刑は日本の文化であり、「死んでお詫びをする」という慣用句にはわが国独特の、罪悪に対する感覚があるとスピーチしたことである。
 たしかにこの国で死刑制度が圧倒的に支持される背景には、こうした日本社会に固有の伝統的な考え方がある。だがはたして国際的に、「死んでお詫びをする」ことが「日本の文化」だからとして、死刑を正当化できるのか。私が危惧するのは、それは一種の「文化相対主義」を利用したものであって、あくまでも内輪向けの議論にすぎず、海外に対してはまるで説得力をもたないことだ。
 EUは死刑廃止の理由を、すべての人間には「生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵」だからだという。これは一種の普遍主義といえる。いま、独善的な文化相対主義を捨て、死をケガレとみなすこの国の「当たり前」を再考する必要がある。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれ。評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。近刊に「加害者家族バッシング−世間学から考える−」

posted by satonaoki at 09:32| NEWS

「朝日新聞」(2020年5月14日)にコメントが掲載されました。

2020年5月14日「朝日新聞」に、和歌山県の「県内在住確認書」をめぐってコメントが掲載されました。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5F6S7RN58PXLB00B.html?_requesturl=articles%2FASN5F6S7RN58PXLB00B.html&pn=7
内容は以下の通りです。
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新型コロナウイルス感染拡大防止のため不要不急の外出自粛が求められる中、県外在住者という誤解をされかねず不安という県民の声を受け、和歌山県は県外ナンバー車を利用している県民向けに、県内在住確認書の交付を始めた。

 県では7日から、県内在住だがやむを得ず県外ナンバー車を使用している県民に対し、県内在住確認書を交付。「和歌山県内在住者です」と書かれ、車のダッシュボードなどに置くことを想定する。

 道路運送車両法では、住所に変更があった場合は変更登録をする必要があると定められている。だが、新型コロナへの感染を避けるため外出回数の減少を求められているため、県では、申請者に登録変更をするよう伝えた上で「緊急避難的な対応」として今回の取り組みを実施している。申し込みは、各振興局で、郵送やメールなどでも申請できる。11日までに1414件交付したという。

 串本町でも、町のご当地キャラクター「まぐトル」が「わたしは 串本町に 住んでいます」と吹き出しで話す姿を印刷した車用のマグネットシートを配布している。町によると、町内で嫌がらせを受けたとの訴えはないが、「県外ナンバーが走っている」との指摘はあったという。担当者は「町民の不安解消と滞在者への配慮を考えた」と話す。500枚作り、希望者に無料で配っている。
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 地域外ナンバーの車への嫌がらせは、他県でも問題になっている。徳島県内では4月下旬、県外ナンバー車のドライバーへの暴言やあおり運転があったとして、知事が嫌がらせをやめるよう呼びかけている。

 地域外ナンバー車を巡る厳しいまなざしについて、「世間」を研究する九州工業大の佐藤直樹名誉教授は、新型コロナへの不安から「内と外をはっきりと分け、内の中は互いに助け合うが、外に対しては厳しく接し、排除する」という世間の意識が強くなっていると分析する。また、ハンセン病元患者や家族に対して差別があったように、世間では病気を「ケガレ」と捉えて忌避する。新型コロナについても、同様の意識が働いているという。

 佐藤名誉教授は「県内在住」と示す行政の取り組みについて、県民の不安を取り除くという理由は理解できるとしつつも、「対立や分断をあおることになりかねない。行政が取り組むことなのか」と疑問を呈した。(藤野隆晃、直井政夫)
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posted by satonaoki at 09:19| NEWS

2020年05月03日

「現代ビジネス」に「コロナ禍で浮き彫り、同調圧力と相互監視の「世間」を生きる日本人」が掲載されました。

 講談社のサイト「現代ビジネス」に「コロナ禍で浮き彫り、同調圧力と相互監視の「世間」を生きる日本人」が掲載されました(2020年5月2日公開)。
 以下をご覧ください。
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72270
 
 なお内容は以下の通りです。
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   コロナ禍で浮き彫り、同調圧力と相互監視の「世間」を生きる日本人

他国にない「世間」の同調圧力のつよさ

 なんだか映画でもみているような光景だ。新型コロナウイルスのパンデミックが全世界を覆い尽くし、すでに死者は21万人以上となった(4月28日現在)。日本では「自粛」や「要請」という言葉が飛びかい、街はゴースト・タウンのようになった。「自粛」で私がすぐに思い出すのは、2011年の東日本大震災直後の人の姿が消えた異様な街の風景のことだ。

 あのとき、被災地に大挙して入ってきた外国メディアから絶賛されたのは、海外だったらこうした無秩序状態でおこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことである。これに限らないが、日本は海外と比較すると圧倒的に犯罪率が低く治安がよい。

 いったいなぜなのか? 私の答えは簡単で、日本には海外とくに欧米には存在しない「世間」があるからだ。震災で「法のルール」がまったく機能を失っても、避難所では被災者の間で自然発生的に「世間のルール」が作動していたのだ。

 ところが欧米には社会はあるが、「世間」がないために、震災などの非常時に警察が機能しなくなり、「法のルール」が崩壊すると、略奪や暴動に結びつきやすい。アメリカなどで災害時にスーパーなどが襲われ、商品が略奪されるのはそのためである。

 歴史的にみると、じつはヨーロッパにもかつて「世間」が存在した。しかし、11〜12世紀以降の都市化とキリスト教の浸透によって、個人(individual)が生まれて「世間」が否定され、個人の集合体である社会(society)が形成された。この社会を支配する原理がまさに「法の支配」、すなわち「法のルール」であった。

 日本で社会は江戸時代にはなく、 140年ほど前に欧米から輸入された。が、いまでもこの社会が定着していない。そのかわりに連綿と続いてきたのが「世間」である。『万葉集』で山上憶良は、「世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども…」と歌っているが、「世間」は1000年以上歴史がある。日本人は、いまなおこの「世間」にがんじがらめに縛られている。

 しかも、「世間」にはきわめて細かなルールがある。ここで詳しく述べる余裕はないが、それには、(1)お中元・お歳暮に代表される「お返しのルール」、(2)先輩・後輩、年上・年下、目上・目下、格上・格下などの「身分制のルール」、(3)「出る杭は打たれる」に象徴され、「みんな同じ」だと考える「人間平等主義のルール」、(4)「友引の日には葬式をしない」といった「呪術性のルール」がある。

 これらのルールを遵守しないと「世間」から排除されるが故に、日本人はこれをじつに生真面目に守っている。誰に強制されたわけでもないのに、過剰に忖度し、自主規制し、「自粛」する。日本の犯罪率の低いのも、ついでにいえば自殺率が高いのも、他国では考えられないほど「世間」の同調圧力がつよいためである。

  〈戦時〉が露出してきた

 トランプ大統領は自分のことを「戦時大統領」と称し、安倍首相はこの事態を「第三次世界大戦」だと口走ったらしい。なるほど。いま私たちが直面しているこの未曾有の事態は、一言でいえば〈戦時〉といってよいのだろう。

 〈戦時〉なのだから、私権を制限する「特別措置法」も、与野党一致の「大政翼賛会体制」のもとでさしたる抵抗もなく国会を通過した。その間「桜を見る会」問題も「森友学園」問題も、ぜんぶチャラになった。〈戦時〉なのだから、「国難」なのだから、「非常時」なのだから、「挙国一致」なのだから、政府批判はひかえよというわけだ。

 この〈戦時〉にあって、欧米諸国の対応はどうだったか。総じていえば、「外出禁止命令」と「罰則」による都市のロックダウンである。このように国が「命令」と「罰則」に頼らなければならないのは、端的にいって、欧米では「法のルール」にもとづく断固とした強制力がなければ、誰も政府のいうことを聞かないからだ。そうなるのは、社会が「法のルール」だけから構成されているからである。

 そして場合によっては、「法のルール」にもしたがわないことがあるのは、家族との面会が制限されたことに端を発した、3月初旬のイタリアの刑務所での暴動をみればすぐに分かる。あのときは、受刑者の家族が、暴動がおきた刑務所の外で堂々デモをしていた。

 日本でも最近、拘置所や留置場での弁護人以外の面会が禁止されたが、こういう話は聞いたことがない。そもそも刑務所で暴動などありえないし、受刑者の家族がデモをして、メディアに顔をさらすことなどゼッタイにありえない。

 では日本では、この〈戦時〉にどう対応したか。たしかに日本でも特措法という「法のルール」はできたが、その内容は欧米のような「命令」も「罰則」もなく、都市のロックダウンもない、「緊急事態宣言」における「外出自粛」と「休業要請」であった。

 まるで強制力のないこの政府の「自粛」と「要請」は、海外から「ゆるすぎる」とも批判された。だが意外に思われるかもしれないが、日本ではこれで必要十分なのだ。この国では「命令」や「罰則」といった法的強制力がなくとも、人々はこれにしたがう。

 なぜなのか? 「周囲の目の圧力」、すなわち「世間」の同調圧力がきわめてつよいからである。日本では強制力のない「自粛」や「要請」であっても、それを過剰に忖度し、自主規制する。まわりが「自粛」し「要請」にしたがっている場合、それに反することをすれば、間違いなく「空気読め」という同調圧力がかかるからである。

 これをよく示しているのが、4月24日に全国に先駆けておこなわれた、大阪府による休業要請に応じないパチンコ6店舗の公表である。公表も特措法にもとづくものなのだが、「罰則」もなく、また「命令」でもない。あくまでも「要請」であり、個々のパチンコ店がこれにしたがうかどうかは任意である。

 しかし、大阪府が公表という強硬手段に出た背景には、府のコールセンターに、23日までに「休業要請の対象なのに店が開いている」「夜中まで営業している」などの通報が、なんと1283件も寄せられたことがある。つまりこの行政へのタレコミは、端的に「世間がゆるさない」ということであって、「世間」の同調圧力そのものである。「世間」には「みんな同じ」という「人間平等主義のルール」があるため、他はみんな要請に応じているのに、あの店だけ開いているのは不平等だ、と非難されるのだ。

 店舗名の公表に喝采を叫ぶ向きもあろう。だが、行政権力が人々の憎しみを煽り、国民を相互に分断するようなことをやっていいのかと私は思う。正当な補償もなく休業を強制できるのは、「世間」の同調圧力の悪用というしかない。いずれにせよ日本では「世間」があるために、欧米のようなハードな「命令」や「罰則」は必要ないのだ。


  人々は〈万人にたいする万人の戦い〉に叩き込まれた

 そもそも新型コロナウイルスがきわめてやっかいなのは、無症状の感染者がかなりいて、気づかぬうちに感染を拡大させていることである。誰が感染しているかまったく分からないから、これが不安と恐怖を呼び込む。

 人々は相互に疑心暗鬼になり、他人が信じられなくなり、〈万人にたいする万人の戦い〉のなかに叩き込まれる。これはホッブズの言葉を借用したものだが、人間は法も国家もない「自然状態」になると、お互い殺し合いになるような状況になるという意味だ。

 こうした疑心暗鬼の結果生じるのは、まずもってパニック騒ぎである。日本では一時、「トイレットペーパーがなくなる」というSNSなどの根拠のない情報によって、スーパーからトイレットペーパーやティッシュが消え、いまでも品薄状態が続く。欧米でも一部でそうした動きがあったようだが、日本のように大規模なものではない。

 興味深い調査結果がある。総務省『情報通信白書』(2018年版)によれば、欧米諸国に比べ日本は他人への不信感が強いという。すなわち、「SNSで知り合う人はほとんど信頼できる」「そう思う・ややそう思う」が日本は1割ほどだが、ドイツは5割、アメリカは6割、イギリスは7割あるそうだ。また、ネットで知り合う人を見分ける自信があると答えたのが、日本は2割だが、英独仏は6〜7割であった。

 ちょっと驚くような内容だが、欧米人が他人を信用できると答えるのは、見分ける自信と能力があると考えるからで、別に人が良いわけではない。まさにヨーロッパで11〜 12世紀以降成立した個人とは、人間関係を自立的に判断する能力をもつ者のことであった。

 一方日本人は、他人が信用できるか否かは、「身分制のルール」があるために、「世間」のなかでどういう地位や身分を占めるかによって判断してきた。これは、それを自立的に判断する能力が、日本では育たなかったことを意味する。人を見分ける能力がないことが、根拠のない情報に踊らされ、パニックを起こしやすい理由となっているのだ。

  感染者へのバッシング

 つぎに、この〈万人にたいする万人の戦い〉の状況が顕在化させたのは、感染者や家族にたいする苛烈な差別やバッシングである。たとえば、3月上旬にヨーロッパへ卒業旅行をした学生が感染した京都産業大学には、「学生の住所を教えろ」「火をつけるぞ」といった内容を含む電話やメールが数百件寄せられたそうだ。

 また、4月中旬には三重県で感染者や家族の家に、石が投げ込まれたり、壁に落書きされるなどの事件が起きている。日本では、あたかも病気=悪であるとして、感染者が犯罪者のようにみなされる。そのため、責任があるとは到底思えないのに、感染者やその家族は「世間」への謝罪を強いられる。

 さらに同月、愛媛県新居浜市の小学校が教育委員会の助言を受け、仕事で感染拡大地域を往来する運送業者の家庭の児童にたいして、自宅待機を要請していたことが明らかになった。あぜんとさせられるが、これなどは、感染者でもなんでもない家族の話で、いわば「コロナ感染の蓋然性」だけで差別やバッシングが起きているのだ。

 もともと日本では、「みんな同じ」という「人間平等主義のルール」があるために、病にせよ犯罪にせよ、標準を少しでもはずれた者にたいする差別やバッシングが起こりやすい。いまコロナへの不安と恐怖の拡大が、感染者への差別を肥大化させている。

 それだけではない。日本の差別がきわめて根が深いのは、「呪術性のルール」があるために、病や犯罪をケガレ(=汚れ)と考え、それらを「清浄」な「世間」から排除しようとするからである。これは、元ハンセン病患者や家族にたいする差別が典型だが、無意識にせよ根底に、感染者にたいするケガレの意識が働いていると考えられるのだ。

 欧米では、11〜12 世紀以降に一神教のキリスト教が多神教的な「呪術性のルール」を否定し、「世間」が社会に変わったために、現在では日本にあるような呪術的な意識はほぼ消失した。だから、人種や民族や宗教を理由とする差別はあるが、ケガレを理由とする差別やバッシングはありえないのだ。

 以上のように、はからずも新型コロナ禍が顕在化させたのは、他国では考えられないような日本の「世間」の同調圧力のつよさである。差別と分断が広がるいまこそ、普段はほとんど意識することはない、こうした「世間」のあり方を再考する必要があると考える。

  佐藤 直樹(九州工業大学名誉教授)



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