2021年2月3日「朝日新聞」の「交論」のコーナーで、コロナ関連法に罰則を付与することについて、「犯罪扱い、 感染者への差別助長」という長文のインタビュー記事が掲載されました。聞き手はオピニオン編集部の桜井泉記者です。私は反対派ですが、賛成派として平井伸治鳥取県知事が登場しています。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14786649.html
2021年02月26日
「朝日新聞」(2021年2月3日)の「交論 罰則の是非は」のコーナーに「犯罪扱い、感染者への差別助長」が掲載されました。
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「ダイヤモンドオンライン」(2021年2月21日)に「時代錯誤のコロナ罰則導入、背景に日本特有の『世間のルール』」が掲載されました。
「ダイヤモンドオンライン」(2021年2月21日公開)に「時代錯誤のコロナ罰則導入、背景に日本特有の『世間のルール』」が掲載されました(ただし有料記事です)。
https://diamond.jp/articles/-/263304
内容は以下の通りです。
−
新型コロナウイルスの感染拡大に対応して罰則を新たに設けた改正特別措置法と改正感染症法が2月13日から施行された。
専門家などからの強い批判があったにもかかわらず、入院拒否や保健所の調査拒否、また休業や営業時間の短縮の命令に応じない事業者に罰則を科すものだが、改正案は国会では与党と一部野党との「密室談合」でロクに議論もされないままあっという間に成立した。
検討されるべき課題は多岐にわたるが、とりわけ改正感染症法は感染者差別を一段と強めかねない重大な問題をはらんでいる。
刑事罰(懲役・罰金)が行政罰(過料)に修正されたとはいえ、端的にいって、感染症法に罰則を付けることの最大の問題点は、現在でも感染者が犯罪者扱いされている状況なのに、文字通り犯罪をおかしたとみなされ、感染者に対する差別や排除を一層強めることだ。
感染者が病気にかかったという理由だけで差別されるのは、人種差別的なものはあるが、欧米ではまず聞かない。日本ではいったいなぜ、感染者が差別やバッシングにさらされるのか?
その第一の理由は、日本特有の同調圧力である、「他人に迷惑をかけるな」という「世間のルール」にある。
日本はもともと同調圧力の強い国だが、その根底にあるのは現在では欧米には存在しない「世間」である。
「世間」とは人間関係のあり方を表すコトバだが、すでに『万葉集』に登場し、1000年以上の歴史がある。スマホなど電子的コミュニケーションが発達した現代でも、じつは日本人の人間関係のあり方は1000年前と変わらない。
「世間」には細かな「世間のルール」が山のようにあり、日本人にとって一番恐いのは「世間」から排除されることなので、みんなが几帳面にこれを守っている。世界に冠たる犯罪率の低さもその反映だ考えられる。このルールのなかに「他人に迷惑をかけるな」がある。
私もそうだったが、多くの日本人は家庭で親から、「他人に迷惑をかけない人間になれ」とか、「世間から後ろ指をさされない人間になれ」などと言われて育つ。欧米だったら、「他人と違う個性的な人間になれ」と言われることころだ。そうやって育ってくると、「他人に迷惑をかけること」が世の中で一番悪いことだと考えるようになる。
そこから新型コロナの場合も感染したこと自体が、まさにこの「世間のルール」に反する「他人に迷惑をかける」行為となる。ただウイルスに感染しただけで感染者が「法のルール」に反したわけでもないのに、あたかも犯罪をおかしたかのようにみなされるのだ。
第二の理由は、感染者が「ケガレ」とみなされるからだ。もともと「世間」はきわめて古い時代の産物であるため、伝統的な俗信・迷信のたぐいがきわめて多い。その「世間のルール」のなかに呪術的な「ケガレの意識」がある。
たとえば、葬式に行ったさいに手渡される小さな袋に入った塩は帰宅した時に家に入る前に自分にまく。これは死者がケガレと考えられ、家のなかにそれを持ち込まないために塩でそれを清める意味がある。
この意識は指摘されないとなかなか気づかないが、きわめて強固に日本人に根付いている。ここから感染者もまたケガレとみなされ、それが外延化して医療従事者やその家族などへの差別も頻発するようになったのだ。
歴史的みれば、感染者がケガレとみなされ、隔離や差別などの人権侵害を受けた典型的事例がハンセン病だ。じつは感染症法の前文には、「過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である」と書いてある。
まさに「過去に」ではなく、現実に起きているのがコロナ感染者差別なのだ。どうしても罰則を付けたいのなら、この法律の前文を削除しなければ整合性がない。国会で複数の野党がこの改正法案に賛成したのにはあぜんとしたが、無知蒙昧としかいいようがない。
漫画家のヤマザキマリさんは月刊誌で、日本では感染者を出すことが犯罪のように扱われるが、イタリアでは感染者が顔を出してSNSなどで積極的に発言していることを指摘し、「いわゆる感染者差別というのは全くと言っていいくらい、ない。病気での差別は数百年前までのプリミティブな人間のやることだと捉えている」と述べていたが、感染者に対する意識が日本とは全く違う。
じつは欧州でも、12世紀ぐらいまで「世間」が存在しケガレの意識があったのだが、現在では消滅した。ここでイタリア人が「数百年前までのプリミティブな人間」と言っているのは、この歴史的記憶があるからだ。ところが日本では、このケガレの意識が現在まで連綿と存在し続け、感染者を差別し排除する圧倒的な同調圧力になっているのだ。
さらに感染者を差別する第三の理由は、ここ20年ぐらいの間に日本を席巻した「自己責任論」にある。
私は、1998年あたりが日本社会の大きな変化のターニングポイントになっていると思うが、この年に自殺者が突如2万人台から3万人台に激増し、労働者の支払給与総額が下がり始め、年功序列・終身雇用制の日本的経営が崩れ始める。
この背景にあったのが、世界的なグローバル化=新自由主義の台頭だ。新自由主義は自己責任を前提とする。職場では成果主義が導入され、労働者が互いの競争に追い込まれ、うつ病や過労死が増えたが、それらも個人の責任だとされるようになった。
とくに01年以降の小泉政権の規制緩和・構造改革路線では、この自己責任がしきりに強調された。ボランティア活動をしていた日本の若者が反政府勢力に人質としてとらえられた04年の「イラク人質事件」では、当時、政府高官が口にした自己責任論がきっかけとなり、人質やその家族が「世間」による苛烈なバッシングにさらされた。
また00年前後から刑事司法では厳罰化の傾向が顕著になり、犯罪率の上昇などの治安の悪化がなかったにもかかわらず、少年法や刑法の改正が頻繁におこなわれた。犯罪は自己責任だとして、社会全体が犯罪者に対してきわめて不寛容になっていったのだ。
私はこれらの変化は、日本社会で連綿と続いてきた「世間」が欧米流の「強い個人」を要求する新自由主義の無理難題に逆切れし、抑圧性や同調圧力を強めた結果だと考えている。その抑圧性を象徴するコトバが、社会的弱者へ投げつけられた自己責任であった。
いま感染者がネットなどで叩かれる場合に、「こんな非常時にあちこち遊び回っているからだ」などと非難され、感染したのは「自業自得」だと中傷される。つまり「感染したのはお前が悪い」というわけだ。この自業自得というコトバこそ、この20年の間に席巻した自己責任を日本流に言い換えたもので、感染者を非難する一種の呪文となったのだ。
とくに日本では、SNSのツイッターでの匿名率が75%ぐらいで、お隣りの韓国を含めて海外の30〜40%台と比較するとダントツに高いことも、感染者への誹謗・中傷が手軽になされるようになった一因だと思う。
そうなるのは、実名で発信すると同調圧力があまりに強いため、叩かれるのを極端に恐れるからだ。ところが匿名になると「旅の恥はかき捨て」の傍若無人状態となり、また同時にスマホが、「世間のルール」に従わない人を監視、中傷するコンパクトなかつての「隣組」や「国防婦人会」となってしまったのだ。
このような感染者差別に対して、いったいどうしたらよいのか?
最も大事なことは、行政が実効性ある手立てをきちんと講じることである。法務省の人権擁護機関は、感染者差別は人権侵害だと一応いっているようだが、たんなるお題目にしか聞こえない。
この意味では昨年12月に施行された「和歌山県新型コロナウイルス感染症に係る誹謗中傷等対策に関する条例」はまさに注目に値するものだ。この条例が画期的なのは、罰則はないが、インターネット上で感染を言いふらしたり、名誉を傷つける投稿をしたりした者に県が削除を指導・勧告したり、プロバイダーに削除協力を求めたりすることができる点だ。
感染者差別を禁止するこれほど積極的で実効性のある条例は、おそらく日本で初めての試みである。このような行政の新しい動きが今後、全国に広がればよいと切に願う。
https://diamond.jp/articles/-/263304
内容は以下の通りです。
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新型コロナウイルスの感染拡大に対応して罰則を新たに設けた改正特別措置法と改正感染症法が2月13日から施行された。
専門家などからの強い批判があったにもかかわらず、入院拒否や保健所の調査拒否、また休業や営業時間の短縮の命令に応じない事業者に罰則を科すものだが、改正案は国会では与党と一部野党との「密室談合」でロクに議論もされないままあっという間に成立した。
検討されるべき課題は多岐にわたるが、とりわけ改正感染症法は感染者差別を一段と強めかねない重大な問題をはらんでいる。
刑事罰(懲役・罰金)が行政罰(過料)に修正されたとはいえ、端的にいって、感染症法に罰則を付けることの最大の問題点は、現在でも感染者が犯罪者扱いされている状況なのに、文字通り犯罪をおかしたとみなされ、感染者に対する差別や排除を一層強めることだ。
感染者が病気にかかったという理由だけで差別されるのは、人種差別的なものはあるが、欧米ではまず聞かない。日本ではいったいなぜ、感染者が差別やバッシングにさらされるのか?
その第一の理由は、日本特有の同調圧力である、「他人に迷惑をかけるな」という「世間のルール」にある。
日本はもともと同調圧力の強い国だが、その根底にあるのは現在では欧米には存在しない「世間」である。
「世間」とは人間関係のあり方を表すコトバだが、すでに『万葉集』に登場し、1000年以上の歴史がある。スマホなど電子的コミュニケーションが発達した現代でも、じつは日本人の人間関係のあり方は1000年前と変わらない。
「世間」には細かな「世間のルール」が山のようにあり、日本人にとって一番恐いのは「世間」から排除されることなので、みんなが几帳面にこれを守っている。世界に冠たる犯罪率の低さもその反映だ考えられる。このルールのなかに「他人に迷惑をかけるな」がある。
私もそうだったが、多くの日本人は家庭で親から、「他人に迷惑をかけない人間になれ」とか、「世間から後ろ指をさされない人間になれ」などと言われて育つ。欧米だったら、「他人と違う個性的な人間になれ」と言われることころだ。そうやって育ってくると、「他人に迷惑をかけること」が世の中で一番悪いことだと考えるようになる。
そこから新型コロナの場合も感染したこと自体が、まさにこの「世間のルール」に反する「他人に迷惑をかける」行為となる。ただウイルスに感染しただけで感染者が「法のルール」に反したわけでもないのに、あたかも犯罪をおかしたかのようにみなされるのだ。
第二の理由は、感染者が「ケガレ」とみなされるからだ。もともと「世間」はきわめて古い時代の産物であるため、伝統的な俗信・迷信のたぐいがきわめて多い。その「世間のルール」のなかに呪術的な「ケガレの意識」がある。
たとえば、葬式に行ったさいに手渡される小さな袋に入った塩は帰宅した時に家に入る前に自分にまく。これは死者がケガレと考えられ、家のなかにそれを持ち込まないために塩でそれを清める意味がある。
この意識は指摘されないとなかなか気づかないが、きわめて強固に日本人に根付いている。ここから感染者もまたケガレとみなされ、それが外延化して医療従事者やその家族などへの差別も頻発するようになったのだ。
歴史的みれば、感染者がケガレとみなされ、隔離や差別などの人権侵害を受けた典型的事例がハンセン病だ。じつは感染症法の前文には、「過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である」と書いてある。
まさに「過去に」ではなく、現実に起きているのがコロナ感染者差別なのだ。どうしても罰則を付けたいのなら、この法律の前文を削除しなければ整合性がない。国会で複数の野党がこの改正法案に賛成したのにはあぜんとしたが、無知蒙昧としかいいようがない。
漫画家のヤマザキマリさんは月刊誌で、日本では感染者を出すことが犯罪のように扱われるが、イタリアでは感染者が顔を出してSNSなどで積極的に発言していることを指摘し、「いわゆる感染者差別というのは全くと言っていいくらい、ない。病気での差別は数百年前までのプリミティブな人間のやることだと捉えている」と述べていたが、感染者に対する意識が日本とは全く違う。
じつは欧州でも、12世紀ぐらいまで「世間」が存在しケガレの意識があったのだが、現在では消滅した。ここでイタリア人が「数百年前までのプリミティブな人間」と言っているのは、この歴史的記憶があるからだ。ところが日本では、このケガレの意識が現在まで連綿と存在し続け、感染者を差別し排除する圧倒的な同調圧力になっているのだ。
さらに感染者を差別する第三の理由は、ここ20年ぐらいの間に日本を席巻した「自己責任論」にある。
私は、1998年あたりが日本社会の大きな変化のターニングポイントになっていると思うが、この年に自殺者が突如2万人台から3万人台に激増し、労働者の支払給与総額が下がり始め、年功序列・終身雇用制の日本的経営が崩れ始める。
この背景にあったのが、世界的なグローバル化=新自由主義の台頭だ。新自由主義は自己責任を前提とする。職場では成果主義が導入され、労働者が互いの競争に追い込まれ、うつ病や過労死が増えたが、それらも個人の責任だとされるようになった。
とくに01年以降の小泉政権の規制緩和・構造改革路線では、この自己責任がしきりに強調された。ボランティア活動をしていた日本の若者が反政府勢力に人質としてとらえられた04年の「イラク人質事件」では、当時、政府高官が口にした自己責任論がきっかけとなり、人質やその家族が「世間」による苛烈なバッシングにさらされた。
また00年前後から刑事司法では厳罰化の傾向が顕著になり、犯罪率の上昇などの治安の悪化がなかったにもかかわらず、少年法や刑法の改正が頻繁におこなわれた。犯罪は自己責任だとして、社会全体が犯罪者に対してきわめて不寛容になっていったのだ。
私はこれらの変化は、日本社会で連綿と続いてきた「世間」が欧米流の「強い個人」を要求する新自由主義の無理難題に逆切れし、抑圧性や同調圧力を強めた結果だと考えている。その抑圧性を象徴するコトバが、社会的弱者へ投げつけられた自己責任であった。
いま感染者がネットなどで叩かれる場合に、「こんな非常時にあちこち遊び回っているからだ」などと非難され、感染したのは「自業自得」だと中傷される。つまり「感染したのはお前が悪い」というわけだ。この自業自得というコトバこそ、この20年の間に席巻した自己責任を日本流に言い換えたもので、感染者を非難する一種の呪文となったのだ。
とくに日本では、SNSのツイッターでの匿名率が75%ぐらいで、お隣りの韓国を含めて海外の30〜40%台と比較するとダントツに高いことも、感染者への誹謗・中傷が手軽になされるようになった一因だと思う。
そうなるのは、実名で発信すると同調圧力があまりに強いため、叩かれるのを極端に恐れるからだ。ところが匿名になると「旅の恥はかき捨て」の傍若無人状態となり、また同時にスマホが、「世間のルール」に従わない人を監視、中傷するコンパクトなかつての「隣組」や「国防婦人会」となってしまったのだ。
このような感染者差別に対して、いったいどうしたらよいのか?
最も大事なことは、行政が実効性ある手立てをきちんと講じることである。法務省の人権擁護機関は、感染者差別は人権侵害だと一応いっているようだが、たんなるお題目にしか聞こえない。
この意味では昨年12月に施行された「和歌山県新型コロナウイルス感染症に係る誹謗中傷等対策に関する条例」はまさに注目に値するものだ。この条例が画期的なのは、罰則はないが、インターネット上で感染を言いふらしたり、名誉を傷つける投稿をしたりした者に県が削除を指導・勧告したり、プロバイダーに削除協力を求めたりすることができる点だ。
感染者差別を禁止するこれほど積極的で実効性のある条例は、おそらく日本で初めての試みである。このような行政の新しい動きが今後、全国に広がればよいと切に願う。
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