2021年11月21日の「北海道新聞」に、阿部恭子『家族間殺人』(幻冬舎新書)の書評を書きました。
内容は以下の通りです。
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どこの国でも犯罪加害者家族に対する偏見や批判はあるが、じつは日本ほど世間のひどいバッシングにさらされることはない。家族が社会的地位を失い、日常生活を奪われ、転居や転職を迫られるのは日本に特有の現象なのだ。
そしてあまり知られていないことだが、この国では殺人の半分が家族間でおきる。家族間殺人の当事者は、加害者家族であると同時に被害者家族であるという、きわめて深刻で困難な立場に追い込まれる。
著者は、2008年に日本で初めて加害者家族支援団体World Open Heartを設立した。本書では、直接支援に関わった「野田市小四虐待死事件」「岩手妊婦殺害・死体遺棄事件」「宮崎家族三人殺害事件」などについて、その背景や動機が丹念に解析される。
なぜ日本の家族は殺し合うのか? 家族間殺人は昔から起きており、しかも減少傾向にあり、巷でいわれるような、日本の伝統的家族が崩壊したからではない。その根底にあるのは、「家族は仲よく、家庭は安全という世間の家族幻想と、そうあるべきという共同体の倫理観による圧力」なのだ。つまり、家族はあまりに肯定的に、ときには美化されすぎているからだという。
また日本では、子どもが罪を犯したときに、親と子が別人格とみなされる欧米とは異なり、仮にそれが成人であっても、親が責任を取れと世間から非難される。「元農水事務次官長男刺殺事件」が典型だが、犯罪につながるような家族間の葛藤や暴力の問題があっても、世間体を考えて外部の支援組織に相談できず、家族内で抱え込んでしまう。
圧巻なのは、後半に言及される1966年に起きたある「兄弟間殺人事件」だ。ここで著者が加害者家族の支援活動にたどり着くきっかけとなった人物との、運命的な出会いが語られる。詳しくはぜひ本書をお読みいただきたいが、淡々とした筆致で、この家族が抱える葛藤の謎が鮮やかに解かれてゆくくだりが、私にはちょっと衝撃的だったことを告白しておきたい。
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2021年11月21日
「北海道新聞」(2021年11月21日)に阿部恭子『家族間殺人』(幻冬舎新書)の書評が掲載されました。
posted by satonaoki at 09:36| NEWS
2021年11月20日
「東京新聞」(2021年11月20日)に杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の書評が掲載されました。
2021年11月20日「東京新聞」の書評欄に、杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(集英社新書)の書評が掲載されました。
内容は以下の通りです。
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男女間には「同意よりも異論を」
もう耳にタコができているかもしれないが、日本のジェンダーギャップ指数はなんと156カ国中120位。だが、自戒をこめて言いたいが、大多数の男性はまるで実感がないのではないか。女性は自分が女性であることを日々意識させられるが、多数派の男性は自分が男性であることを、それほど強く意識しなくとも暮らしていけるからだ。
著者は、いま#MeToo運動など時代の大波にさらされ、その居心地の悪さに、困惑し、戸惑っている、「迷える多数派の男たちのためのまっとうな教科書」が必要だという。それを実現した本書は、これまでのフェミニズムをめぐる様々な論争や、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『ズートピア』『ジョーカー』などの映画作品を素材に、男性たちがフェミニズムから何を学ぶべきかを、網羅的に整理し丁寧に解読する。
論点は多岐にわたるが、現在とりわけ問題なのは、近年のグローバル化と多文化主義化によって、ジェンダー、人種・民族、障害、経済階級などの差別が交差し複合化したことで、男性の側で、自分も被害者であるとの剥奪感が強まったことだ。被害女性を「勝ち組の典型」とみなし殺害しようとした8月の「小田急線無差別刺傷事件」が象徴的だが、それが容易に女性への攻撃に転化し、アンチフェミニズム的な気分の拡大を招いている。
ではどうすればよいのか。特筆すべきは、「一九六〇年代〜七〇年代のラディカルフェミニズムの原点(非対称な敵対性の場所)に立ち還るべきではないか」との提案だ。これは、男性と女性の間には圧倒的な非対称性が存在し、男性には加害者性の自覚が必要だということだ。
求められているのは、#MeToo運動への訳知り顔の共感や賛同ではない。大事なのは、何よりもまず男性自身が男性問題を問い直してゆくこと。そして、男性と女性の間での、「同意ではなくむしろ異論を。対話ではなく論争を。友愛ではなく敵対を待ち望」む態度だという。いま自分の立ち位置に迷うマジョリティ男性に待望の一冊である。
〔もう一冊〕武田砂鉄『マチズモを削り取れ』(集英社)日本が、いかにとんでもない男尊女卑の国であるかがよーく分かる。
内容は以下の通りです。
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男女間には「同意よりも異論を」
もう耳にタコができているかもしれないが、日本のジェンダーギャップ指数はなんと156カ国中120位。だが、自戒をこめて言いたいが、大多数の男性はまるで実感がないのではないか。女性は自分が女性であることを日々意識させられるが、多数派の男性は自分が男性であることを、それほど強く意識しなくとも暮らしていけるからだ。
著者は、いま#MeToo運動など時代の大波にさらされ、その居心地の悪さに、困惑し、戸惑っている、「迷える多数派の男たちのためのまっとうな教科書」が必要だという。それを実現した本書は、これまでのフェミニズムをめぐる様々な論争や、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『ズートピア』『ジョーカー』などの映画作品を素材に、男性たちがフェミニズムから何を学ぶべきかを、網羅的に整理し丁寧に解読する。
論点は多岐にわたるが、現在とりわけ問題なのは、近年のグローバル化と多文化主義化によって、ジェンダー、人種・民族、障害、経済階級などの差別が交差し複合化したことで、男性の側で、自分も被害者であるとの剥奪感が強まったことだ。被害女性を「勝ち組の典型」とみなし殺害しようとした8月の「小田急線無差別刺傷事件」が象徴的だが、それが容易に女性への攻撃に転化し、アンチフェミニズム的な気分の拡大を招いている。
ではどうすればよいのか。特筆すべきは、「一九六〇年代〜七〇年代のラディカルフェミニズムの原点(非対称な敵対性の場所)に立ち還るべきではないか」との提案だ。これは、男性と女性の間には圧倒的な非対称性が存在し、男性には加害者性の自覚が必要だということだ。
求められているのは、#MeToo運動への訳知り顔の共感や賛同ではない。大事なのは、何よりもまず男性自身が男性問題を問い直してゆくこと。そして、男性と女性の間での、「同意ではなくむしろ異論を。対話ではなく論争を。友愛ではなく敵対を待ち望」む態度だという。いま自分の立ち位置に迷うマジョリティ男性に待望の一冊である。
〔もう一冊〕武田砂鉄『マチズモを削り取れ』(集英社)日本が、いかにとんでもない男尊女卑の国であるかがよーく分かる。
posted by satonaoki at 09:43| NEWS