2022年09月13日

「ダイヤモンドオンライン」(2022年9月13日公開)に「安倍元首相国葬の危うさ、社会より『世間のルール』優先で要求される忖度」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2022年9月13日公開)に「安倍元首相国葬の危うさ、社会より『世間のルール』優先で要求される忖度」が掲載されました。
以下でご覧いただけます(ただし有料記事です)
https://diamond.jp/articles/-/309643

テキストはほぼ以下の通りです。
-
 安倍元首相国葬の危うさ、社会より「世間のルール」優先で要求される忖度

         評論家/九州工業大名誉教授 佐藤直樹


●国葬の必然性や法的根拠
●岸田首相の国会説明でも曖昧なまま

安倍晋三元首相の国葬についての世論の賛否がわかれ、むしろ批判的な声が強まる中、岸田文雄首相は8日、国会の閉会中審査に自ら出席、国葬実施への理解を求めた。
だが説明は、法的根拠にせよ、費用の総額にせよ、なぜ内閣・自民党合同葬でダメなのかにせよ、これまでのくり返しが多く、説得力があったとは到底思えない。
とはいえ、どんなに反対の声が広がっても、国葬の実施形式が変更されたり中止されたりすることはなさそうだ。
この間の国葬をめぐる岸田政権の混乱と迷走をどう考えればよいのか。
「世間」と「社会」という二つの人間関係を峻別する「世間学」の視点から、この問題を読み解くと、権力基盤の保持のため仲間ウチに「気を使う」という、日本独自の「世間のルール」が発動されていることが見えてくる。

●岸田首相の大誤算
●統一教会問題で「世間」の空気一変

 
日本で「世間」という人間関係は、『万葉集』の時代から1200年以上の歴史をもっている。そこには利害や情緒でつながった仲間ウチの関係や他人の目などの、沢山の伝統的な「世間のルール」がある。
 たとえば、「大安の日に結婚式をし、友引の日には葬式を避ける」という「世間のルール」は、それに反したからといって法的に罰せられることはないが、ほとんど法と同様の強制力をもっている。
つまり「世間のルール」に反した場合には、「世間」から排除されるという「処罰」を受けることになる。日本人は「世間を離れては生きていけない」と固く信じているために、現在でもこれにがんじがらめに縛られている。
 安倍元首相の国葬問題も、この視点から考えればわかりやすい。
元首相の銃撃事件からわずか6 日後の 7月14日に、岸田首相は国会にたいする説明もなく国葬実施を表明し、22日には閣議決定をおこなった。
参議院選挙には勝利したものの、未曾有の物価高にほとんど何も対策を取らなかったことなどで、支持率の低下傾向に悩む岸田政権にとっては、献花台に長蛇の列ができるというような、元首相への「世間」の同情と共感の空気を読んで、国葬を政権浮揚の絶好の機会と考えたようだ。
 ところがこれがまったくの誤算だったのは、その後、旧統一協会と安倍元首相や自民党との癒着が、連日メディアで報道されることで、「世間」の空気が一変したことだ。
国葬反対デモや反対署名が活発におこなわれ、 8月に新聞・放送など報道各社がおこなった世論調査では、そのほとんどで国葬反対が賛成を上回るという、国論が二分される事態となって、大慌ててで、首相自ら「丁寧な説明」を始めたということだろう。

 かつて欧州にも「世間」が存在した。しかし、12世紀前後からのキリスト教の支配などによって、「世間のルール」が否定されることで、「世間」は法のルールから構成される「society」 に変わった。だから現在の欧米には、日本のような「世間」は存在しない。
 日本には、明治時代の近代化=西欧化の過程で、「society」 が輸入されたが、それは江戸時代には存在しなかったので、「社会」と新たに翻訳された。同時に憲法をはじめとする近代法も輸入された。つまり社会と法はワンセットであり、英語では「ルール・オブ・ロー」(法の支配)というが、この社会を構成する「社会のルール」の基本が法であったのだ。
問題なのは、このときから日本は、土台としての「世間」と、その上にちょこんと乗っかった上部構造としての「社会」という奇妙な二重構造に支配されるようになったことである。
 しかもやっかいなのは、近代的な「社会」がタテマエにすぎず、伝統的な「世間」がホンネだという構造が生まれたことだ。
つまり、法から構成される「社会のルール」はあくまでもタテマエであり、「世間のルール」こそホンネだとする構造が成立し、それが現在に及んでいるのだ。

●安倍「お友達政権」時代と同じ手法
●保守派に気を使い「社会のルール」軽視

 これが戦後の政治のなかで、きわめて深刻なかたちで露出したのが、安倍政権の時代だ。
自らに近しい政治家を大臣などで重用するなど「お友達政権」と揶揄されたが、私がとりわけ異様に感じるのは、安倍元首相が自らの権力基盤の維持のため、仲間ウチへのロコツな利益供与ととられるようなことを行い、一方で、与党の政治家や官僚などで、首相や首相側近の意向を慮る「政権への忖度」が行われたことだ。
そして「世間のルール」を発動させることで、「社会のルール」である法を無視したり、ねじ曲げたりすることがたびたび起きた。
 たとえば、財務省の公文書改ざんに関わった職員を自死にまで追いこんだ「森友学園事件」。仲間ウチへの公金横流しというべき「加計学園事件」。公金を使った地元支持者の大量ご招待と、内閣府による招待者名簿の破棄疑惑という「桜を見る会」などだ。
 つまりここでは、自分のミウチの「世間」のことは安倍元首相のアタマにあるのだが、その外にあるはずの社会がまったく抜け落ちている。これを端的に「政治の劣化」といってよいが、根底には「世間」が肥大化し「社会」が消滅している状況がある。
その結果が、「社会のルール」の基本である法の無視・ねじ曲げだった。これが、どれほど多くの国民の間に、政治にたいする絶望感や不信感を広げたかは、はかり知れないものがある。
 今回の岸田政権での巨額の公金支出をともなう国葬の閣議決定も、政治手法という点では安倍政権と変わらない。
「国葬令」があった戦前ならともかく、法的根拠が不明であり、まさに閣議決定による法の無視・ねじ曲げ、つまりは「社会のルール」の軽視にほかならないからだ。
 閣議決定が私物化されるようになったのも安倍政権時代だった。
私がとくにア然としたのは、2020年の黒川高検検事長の定年延長だ。それまでは検察首脳の人事は検察捜査の公正を担保するために検察にまかせる慣例、いわば「社会のルール」が尊重されていたが、それをねじ曲げ、「桜を見る会」などでの疑惑がかけられるなか、自己保身のためにミウチを検事総長にしようとした、まったく無理筋の閣議決定だった。
今回、岸田首相が国葬を決めた理由についても、「安倍氏と親しい保守系議員に気を使った」という政治ジャーナリストの指摘や、麻生太郎・自民党副総裁が、保守派が騒ぎ出す、これは理屈じゃないんだよと、首相に何度も電話で迫ったという話がメディアで報じられた。
ここでも、自らの権力基盤の維持のため仲間ウチに「気を使う」という、「世間のルール」が発動されている。岸田首相のアタマにも、「世間」はあっても「社会」があるとは思えないのだ。

 ●「弔意表明」で懸念される忖度
 ●有形無形の同調圧力かかる恐れ
 
国葬の実施では、ほかにも気になることがある。弔旗の掲揚や黙とうをめぐる「忖度」だ。
 岸田首相は 8月31日の記者会見で、国葬の際の「弔意表明」について、「国民に強制すると誤解を招くことがないように閣議了解は行わず、地方公共団体や教育委員会などに対する弔意表明の協力の要望も行う予定はない」と表明した。
ところが会見では同時に、「各府省における弔意表明については、葬儀委員長決定とし、弔旗を掲揚し、葬儀中の一定時刻に黙とうをするとした」と述べている。
 この内容をよくみると、弔意表明を「国民に強制」しないという前段は、「各府庁における弔意表明」は強制するという後段によって、事実上ホゴになっているといえる。
一見支離滅裂のようにも思えるが、岸田首相がここで言いたかったのは、ようするに、「弔意の表明は強制ではないが、忖度せよ」ということではないか。
昨今のコロナ禍では、欧米では命令と罰則という強制力をもつ法を発動して対処した。ところが日本では、法的強制力のない自粛と要請というゆるい対策で十分だった。「世間のルール」である同調圧力が、法と同じような強制力を発揮したからだ。
「強制ではないが、忖度せよ」という岸田政権もそうであるが、決定した自らの責任は取りたくないので、「社会のルール」である法を発動せず、「世間」の同調圧力を悪用するのはいつもの政権の手口である。
 国葬に反対する東京弁護士会は、会長声明で、「安倍元首相の『国葬』に対する忖度から、公的機関のみならず民間機関に対しても(吉田茂元首相の「国葬」時と−引用者注)同様の有形無形の同調圧力がかかることは容易に予想され、弔意の表明の事実上の強制が行われかねない」と指摘している。
 驚くべきことだが、 7月に行われた安倍元首相の家族葬の際も、だれも命令も指示もしていないのに、東京都をはじめとする複数の地方自治体が高校などに半旗掲揚を求める依頼文書を流している。
これは明らかに忖度であって、なんら命令や指示といった「社会のルール」である法にもとづくものではない。そして一部自治体では、「弔意の表明」への忖度がすでに始まっている。
ところで2017年に「森友学園事件」の籠池泰典元理事長は、外国特派員協会の記者会見で、国有地売却をめぐる外国紙の記者の質問に答えて、「(周囲が−引用者注)安倍首相また安倍首相夫人の意志を忖度して動いたのではないか」と語ったことがあった。
このときに通訳が忖度を英訳できずに、「直接言い換える表現はありません」とサジを投げた。英訳できないのは、それが「世間のルール」に属する言葉であり、欧米には「世間」が存在しないからだ。
私の考えでは、これはたんに「他人のキモチを推察する」ことではない。「子どもを忖度する」とはいわないからだ。正確にいえば、「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して行動を決定する」ことで、ここには明らかに上下の権力関係が潜んでいる。
法を基本にした「社会のルール」が支配する欧米社会の組織体では、命令や指示が原則であり、原理的に忖度はありえないのだ。
 忖度は相手を思いやるという、日本の「美しい伝統」との意見もあるが、私はそうは思わない。
命令や指示なしに忖度が要求されることで、責任の所在がとことん曖昧にされるからだ。
国葬の実施でこの忖度がまたまん延することを、私は強く危惧している。

posted by satonaoki at 12:25| NEWS