2023年01月20日

2022年12月26日夜、Abema Primeの番組にスタジオ生出演しました。

2022年12月26日夜、ネットのAbema Primeの番組にスタジオ生出演しました。
テーマは「【同調圧力】建前が重視?なぜ日本人は空気を読みすぎてしまう?」です。
内容は以下でご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=KIjykMYMhlw
posted by satonaoki at 20:21| NEWS

2023年01月15日

「ダイヤモンドオンライン」(2023年1月10日公開)に「ウイズコロナでマスク『着用不要』でも外さない日本人の“呪縛の根源”」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2023年1月10日公開)に「ウイズコロナでマスク『着用不要』でも外さない日本人の“呪縛の根源”」が掲載されました。
https://diamond.jp/articles/-/315729

内容はほぼ以下の通りです。


 ウイズコロナでマスク「着用不要」でも外さない日本人の”呪縛の根源”

                 評論家/九州工業大学名誉教授 佐藤直樹

●世界と違う日本の街角風景
●Wカップ会場応援席はノーマスク

 世界の街の風景を一変させた新型コロナのパンデミックは、ほとんどの国でマスク着用が義務となったが、発生からもう3年を越えようとしている。いまウウィルスの正体もかなり分かってきたことで、多くの国で着用義務が解除されつつある。
 カタールで開催されたサッカーのワールドカップでも、は、会場の観戦者はほぼノーマスクだった。
 ところが、いまだに日本ではそうではない。
 厚生労働省のホームページを見ると、屋外では、人との距離(約 2メートル)が保てず会話をする場合を除いては、「季節を問わずマスク着用は原則不要です」とはっきり書いてある。街をふつうに歩く限り、マスクは不要なのだ。
 にもかかわらず、第8波の到来で感染者がじわじわ増えていることもあるが、外を歩く人のマスク着用率は依然としてほぼ 100%。感染者が減少し、熱中症が懸念された今年の夏においてさえ、着用率がほとんど変わらなかったことは、驚きだとしか言いようがない。
 いったいなぜ日本では、海外のようにマスクを外すことができないのか? 

●コロナ禍で日本の独自性浮き彫り
●営業や外出規制は「自粛」や「要請」

 筆者が専門とする「世間学」では、3つの理由や背景が考えられる。
 まずは、日本特有の「世間」のつよい同調圧力があるために、マスクを外せないことがある。
 日本人は、1200年以上前の『万葉集』の時代から続く、「世間」という独特の人間関係に縛られてきた。そのため、私たちは「世間」から排除されないように、現在でもたくさんの「世間のルール」を守らなければならず、これが同調圧力をもたらしている。
 実はこうした人間関係は、ヨーロッパにも12世紀前後まであったが、それが否定されて徐々に「society」たる「社会」に変わり、「法のルール」に支配されることになった。いまの日本に根強く残る「世間のルール」は、ほぼ消滅した。
 この社会の特徴は、「法のルール」に支配されていることにある。
 昨今の新型コロナ禍は、このことをがはっきりと、目に見えるかたちで示したといえる。
 パンデミックが全世界的にほぼ同時に起きたときに、欧米と日本の対応はまったく対照的だった。
 欧米各国はロックアウトを含め、外出禁止や営業禁止の命令と罰則といった、強制力をもつ「法のルール」に基づいた厳格な対応をした。ところが日本では、外出にせよ営業にせよ、自粛と要請というまったく法的な強制力をもたない、きわめてゆるい対応をとった。
 面白いことに、少なくとも第6波までは、日本では感染者数も死亡率も、欧米と比べるとかなり小さく抑えることができた。そうした感染防止の効果を発揮したのは、自粛や要請に応じないお店があった場合に、「自粛警察」の登場が象徴的だが、「空気を読めよな」という「世間」からの同調圧力がかかり、それに従うしかなかったいからだ。
 欧米では社会しか存在しないために、「法のルール」で対処するしかなかったが、日本では、「人に迷惑をかけるな」といった「世間のルール」が、実質的に「法のルール」と同じか、それ以上の効果を発揮したのだ。

●マスク着用も「世間のルール」
●ウチとソトを分ける「ケガレの意識」
 
 マスク着用についても、同じことがいえる。
 欧米では、「マスク着用義務」という「法のルール」で対応した。これには「着用義務反対デモ」も各地で起きた。ところが日本では、「法のルール」に基づかない要請だったにもかかわらず、「マスク警察」が登場するなど、「空気を読めよな」という同調圧力が力を発揮し、街は 100%のマスク着用者であふれた。
 そうなると、欧米では、コロナ感染が収束し始め、法的な「マスク着用義務」が解除されれば、人々はすぐにマスクを外せる。しかし日本では、「法のルール」に基づかず、「世間のルール」に基づくものであるために、いくら政府が「外してもいいですよ」と言っても、周囲のマスク着用の空気がなくならない限り、マスクを外すきっかけがもてないのだ。
 もともと日本人は衛生観念もきちんとしているとはいわれてきた。だからマスク着用には抵抗は少ないことは確かだ。 
 だが、マスクを外せないつぎの理由として、この衛生観念にも、「ケガレの意識」という、日本に独特の「世間のルール」が反映されていることがある。
 もともと欧米では、マスクをするのは銀行強盗ぐらいなもので、マスク着用の習慣はなかった。風邪をひいたぐらいで、マスクをすることはなかったのだ。ところが日本では、戦前のスペイン風邪以降、戦後もインフルエンザや花粉症対策などで、マスク着用が圧倒的に普及し、これに対する抵抗感がほとんどない。
 どうしてそうなるかといえば、「世間」はきわめて古い歴史をもっているので、そこに数多くの伝統的な「世間のルール」が残っているからだ。
 その一つが、「呪術性」によるルールだ。パワー・スポットや前世を信じたり、大安には結婚式が集中し、友引には葬式をしなかったりということなどだ。
 このルールは、法律のように明文化されているわけではないが、遵守しなければならない暗黙のルールとみなされている。無視すると、場合によっては「世間」から排除されるからだ。意外に思われるかもしれないが、実は日本人は信心深いのだ。
 そしてこの「呪術性」のルールの中に、ウチとソトを厳格に分ける「ケガレの意識」がある。これによれば、マスクのウチにある身体は清浄でケガレていないが、「人ごみ」と呼ばれるように、ソトの雑踏はゴミだらけで、不浄でケガレているとみなされる。
 マスク着用は、この「不浄なソト」と「清浄なウチ」との間に境界線を設け、ソトからの空気を浄化して清め、身体をケガレから守るという機能をもつと信じられている。
 ソトからウチ(家)に入るときに靴を脱ぎ、うがいや手洗いをする日本独特の衛生観念も、それらがソトから持ち込んだ汚れやケガレを清めるという、マスク着用と同じ意味をもつ。これが新型コロナ禍でも、感染防止にそれなりの効果を発揮した。
 しかし同時に、「ケガレの意識」からマスク着用に抵抗感がないことが、逆にマスクが外せない理由になっているのだ。

●「だてマスク」は独特の対人関係の象徴
●同調圧力や他人の視線を避けるツール

 さらに三つ目の理由として、「だてマスク」に象徴されるような、日本人独特の対人関係や他人の視線などに対する意識の問題がある。
 「だてマスク」とは、10年ほど前からとくに若者の間で流行している、風邪もひいていないのに、マスクを日常的に着用する習慣だ。その理由は、何となく落ち着くとか、顔のコンプレックスを隠せるとか、視線にさらされない安心感があるということらしい。
 これで私が思い出したのは、日本人に特有の心理的現象である「対人恐怖」だ。それには、赤面恐怖や、自己視線恐怖、醜貌恐怖、吃音恐怖、自己臭恐怖などがあるという。つまり人前に出ると、過剰に自分のことが気になるという症状である。相手の目をみて話すのがふつうの欧米では、こうした心理的現象はほぼ存在しないという。
 興味深いのは、精神医学者の木村敏さんが、この症状は、家族の前や見ず知らずの人の前では出ないが、会社の同僚とか顔見知りの人の前で出ると指摘していることだ。
 私に言わせれば、「顔見知り」というのがまさに「世間」の関係であり、対人恐怖は「世間」を前にしたときの症状だということになる。
 この心理があるために、「だてマスク」は対人関係で、「世間」のつよい同調圧力から自分を守る格好のツールになっているといえる。
 新型コロナ禍によって、そうした認識がより広がった可能性もある。とすれば、「だてマスク」愛好者に限らず、日本人にとってマスクは、着けているとなかなか居心地が良いので、簡単には外せないことになる。
 こう考えてくると、第8波が収束したとしても、多くの人にとってマスクを外すことは容易ではない。しかし、酸欠による集中力の低下などの身体の不調や、成長段階の子どもが、表情を見て相手の気持ちを読み取る能力が落ちるといった、マスクの常時着用によるさまざまな弊害も、最近、指摘されている。
 おそらく、街での非着用率が 3割をこえれば、「世間」の空気も変わると思う。いま必要なのは、「空気は読んでも従わない」という、一人一人の小さな勇気なのではないか。






posted by satonaoki at 11:06| NEWS

2023年01月07日

「東京新聞」(2023年1月3日)「こちら特報部」の記事で、私のコメントが掲載されました。

 「東京新聞」(2023年1月3日)「こちら特報部」の「バッシングに『お墨付き』与えた行政 昼カラ、パチンコ店…娯楽が標的 背景に日本人特有の同調圧力か」という記事で、私のコメントが掲載されました。
 コメントの内容は以下の通りです。

 九州工業大名誉教授(世間学)の佐藤直樹は「みんな同じという意識が一気に噴き出して凶暴化し、もともと根底にある差別意識が特定業種へのバッシングにつながった」と説明する。不要不急の外出が制限される中、娯楽であるパチンコや昼カラ、夜の街が標的になったとみる。
 背景にあるのは日本人特有の気質だ。「日本には1200年の歴史がある『世間』という人間関係があり、目に見えない守るべきルールがある。その中で一番重要なこととして『人に迷惑を掛けるな』というのがすり込まれている」。欧米が命令と罰則でコロナに対処したのに対し、日本は世間の目による自粛と要請に頼った。「行政のやり方は無責任だ」と批判する。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/223177
posted by satonaoki at 17:09| NEWS