インターネットの「遠方見聞録」(2023年5月30日公開)に「『世間』と”清潔感”ー同調圧力発生の原因は『世間』にある?ー」というインタビュー記事が掲載されました。
内容は以下をご覧ください。
https://tohokenbunroku.com/article?id=8ddbgxm6fjip
テキストは以下の通りです。
−
「世間」と“清潔感”
ー同調圧力発生の原因は「世間」にある?ー
「人さまに迷惑をかけたくない」――。被害者になるより加害者になることに対して恐怖するこの心理は、どのようにして生まれるのだろうか? ひとつの答えとして「世間」の存在があるという。九州工大名誉教授で刑事法学を専門とし、「世間」評論家として活動している佐藤直樹氏に聞いた。
「人さまに迷惑をかけたくない」――。被害者になるより加害者になることに対して恐怖するこの心理は、どのようにして生まれるのだろうか? 人はなぜ“清潔感”を極端に志向するのだろうか? 倫理的に“ブラック”になることに対する恐怖のあまり、徹底的に“ホワイト”を志向する傾向が強まるのは日本に特有のことなのだろうか? それらの問いに対するひとつの答えとして「世間」の存在があるという。九州工大名誉教授で刑事法学を専門とし、「世間」評論家として活動している佐藤直樹氏に聞いた。
社会を支えるのは秩序であり、その秩序を機能させるために「法」というルールは存在する。もっとも日本においては、法よりもさらに重視される「世間」というルールがある。
「世間」が同調圧力を生み出す
象徴的なのがマスク問題だ。2023年3月13日、日本においてマスクの着用は個人の主体的な選択を尊重することになった。4月に発表された政府の広報ビデオでは、「マスクをつけるかどうかは個人の判断となりました」「一人ひとりの考えを尊重しましょう」という告知がされたが、「重症化リスクが高い方への感染を防ぐため医療機関に行くときや通勤ラッシュ時などはマスクの着用を」と語尾をぼかす形でマスクの着用を促している。
ルール変更を告知するビデオでさえ、以前のルールを踏襲するかのような告知がなされる。政府広報においてさえ、そんな相反が起きてしまう。
九州工業大学名誉教授で刑事法学や世間学を専門とする佐藤直樹氏によれば、日本においては「ときに法律や権利よりも、同調圧力が行動規範となる」からだという。そしてその同調圧力によって「世間」が形成されているのが日本社会だ。
「『世間体』という言葉に象徴されるように、日本人は顔の見えない『人様』に迷惑をかけてはならないという刷り込みがなされています。”スメハラ”が典型的ですが、『加害者になる恐怖』というある種の対人恐怖的な思考に支配されています。日本人にとっては、ときに法律で定められた厳格なルールより、ぼんやりとしていても長きにわたって刷り込まれた『世間』のルールが優先されてきました」
日本における「社会」の歴史は浅い
明治維新まで日本には「社会」という言葉は存在しなかった。1875(明治8)年頃「東京日日新聞」の福地桜痴によって英語の"Society"の訳語として形成される以前は「世の中」という広い世界を指し示すのは「世間」だった。日本人の観念としては造語としての「社会」よりも「世間」のほうがなじみ深い。
実際、「世間」という言葉は1000年以上にわたり、日本人の精神構造に影響を与えてきた。9世紀に山上憶良が「貧窮問答歌」でうたった有名な和歌にも「世間」が登場する。
「この『世間』は『よのなか』と読みます。万葉集には他にも『世間』という言葉がたくさん出てきますが、まず世間ありき、とも言うべき日本人の人間関係の情緒的な成り立ちはほとんど変わっていません」
「世間」が「法律」を上回る?
一般に「社会」とは「個人や集団が互いに関わりながら暮らす、人間の組織や仕組み」を指す。その仕組みを保つために、法律などの社会的な規範やルールにのっとって秩序が構築される。
一方「世間」とは世の中で一般に広く共有される一般的な意識を指す。主体は曖昧模糊としている人間の意識の集合体であり、とらえどころがないから代弁者に対して反論がしにくく、強い同調圧力が働きやすい。佐藤氏によれば、日本人が最低3人いれば「世間」は形成されるという。
「『個人』という言葉も『社会』という訳語が生まれた直後の1884(明治17)年頃に翻訳されて登場しました。語源となった”Individual”という言葉を語源から分解すると”in”は『否定』、”divide”は『分割する』という意味。つまり『これ以上分割できない』最小単位が『個人』であって、その集合体が”Society”――社会となるのです。つまり社会とは『バラバラの個人同士の関係が法的な規律で定められた関係性』で、権利や人権などと一体となっていて、日本的で顔の見えない『人様』の意識をぼんやりと象徴する『世間』とは根本的に異なっています。明治の人がsocietyという言葉を『世間』と訳さなかったことは素晴らしい慧眼だと思います」
しかし現代の日本では、法や規律とは関係なしに過剰な清潔感を求めるような雰囲気が強くなっている。
「ターニングポイントはいくつかありますが、2007年に新語・流行語大賞にノミネートされた『KY』という言葉。『空気を読め』とはまさに同調圧力の強要にほかなりません。その頃から、体臭やたばこの煙のにおいなどに対して過剰な清潔感を求める傾向が強くなってきました」
この特集の第3章で取り上げたように、本人も対処に苦慮する”スメハラ”や“香害”、そして、壁や天井に吸着したたばこの煙の成分に対してまでも過剰な清潔感を求めるようになった。明治以降の日本では「社会(≒建前)」と「世間(≒本音)」という二重構造の行動規範が長く続いている。いや続くどころか、肥大化すらしているように見える。
日本では長く「ムラ」に象徴される中間団体と、全体主義的な「世間」が国を動かしてきた。言うなれば日本は「中間全体主義」の国と言っていい。コロナ禍における、マスク騒動や自粛警察は日本ならではの現象だ。
欧米では命令と罰則という法の運用でパンデミックに対抗した。私権を制限し、違反すれば罰則が適用される。対して日本の法には罰則を課すような強制力はなく、自粛の要請および「世間」の同調圧力の形成によってコロナ禍を乗り切ろうとした。海外では法、日本では世間、それぞれのルールで変化し続けるウイルスに向き合った。
「世間」のメリットとデメリット
「世間(体)」や「建前」「同調圧力」などの言葉が日本におけるコミュニティの本質を指し示しているとしても、それは必ずしもネガティブな事象であることを意味するわけではない。
例えば2011年に起きた東日本大震災では、家族や家屋を失った被災者が日常を冷静に過ごす様子が全世界に向けて報道された。「日本社会の緊密な形、 そのしぶとい強靭さが、光ることとなるだろう。そして日本人はおおむね、一致団結して協力するだろう」(米・NYタイムズ)と予測され、「なぜ日本人は略奪しないのか」(英・BBC)とも報道された。
欧米のように法や規制と罰則で機能する「社会」は、非常時に失われた機能の分だけ機能不全を起こしてしまう。そうした国で災害が起きたときにスーパーマーケットが略奪に遭う映像を見たことがあるだろう。一方、日本のように建前と同調圧力で形成された「世間」は法などの多少の機能が失われても全体としての同調圧力が失われなければ、建前を規範として機能させることができる。
法という明確なルールを規範とした「社会」にも、同調圧力というぼんやりとしたマナーを重視する「世間」のどちらにも良し悪しはある。
「例えば同調圧力で形成されている『世間』(日本)は圧倒的に治安がいい。殺人の発生率はアメリカの17分の1程度で、いまなお減り続けています。法律で明文化されたルールよりも遥かに厳しい縛りが課されている。一方で『世間』というコミュニティで暮らすとストレスが溜まります。言語化できない空気を読み、正しく同調できるよう、細心の注意を払う必要がある。そのストレスが積もり積もって自死へとつながったりするのです」
追い風が吹いているときはどこまでも共感してもらえるが、一度逆風になると犯罪でもないのに社会復帰すらおぼつかない――。そんな事例は、芸能人のスキャンダルや企業の不祥事など、いくつも思い浮かぶはずだ。一度「世間」で居場所を失うと名誉回復は非常に難しい。ましてや「清潔感の暴力」と言えるほどの行き過ぎたホワイト志向への解決策はあるのだろうか。
「日本社会の清潔至上主義が極端に振れたまま加速したら、その先にある『世間』には息苦しさと閉塞感しかなくなってしまう。表現の自由は萎縮し、汚れやケガレを徹底的に排除するような事件が増え、マイノリティにとって生きづらい世界になってしまいます」
だが光はある。
「『個人であれ』という姿勢を表明するような、中間全体主義へのカウンターを当てるような機運が盛り上がるといいですね。空気は読んでも従わない。軋轢を生まない程度に他人は他人、自分は自分というふうに行動規範を切り分ける。その上で、さまざまな“世間“に所属するのです。例えば趣味のサークルや通う酒場を増やし、それぞれの場所でそれぞれの関係性をつくっていく。個人として多様な世間を持つことが、世間自体に柔軟性をもたせることにもつながっていくんです」
「世間」という日本独特の規範は、運用次第で尊いものにも暴力的なものにもなる。そこに「社会」という世界標準のルールをしたたかに取り込む。その先には、硬直化した世間や杓子定規な社会が、柔軟な世界へと姿を変えていく未来が見える。
2023年05月31日
「遠方見聞録」(2023年5月30日公開)に「『世間』と”清潔感”」というインタビュー記事が掲載されました。
posted by satonaoki at 10:21| NEWS
2023年05月15日
2023年5月11日(木)「TOKYO MX テレビ」「堀潤モーニングFRAG」の「激論サミット」にビデオ出演しコメントしました。
2023年5月11日(木)朝「TOKYO MX テレビ」の「堀潤モーニングFRAG」「激論サミット」という番組にビデオ出演しました。テーマは「マスク外す宣言で星野リゾート炎上 なぜ起きる?マスク分断」です。政府の「個人の判断」という同調圧力頼りの政策は無責任だとコメントしました。
期間限定で以下でご覧になれます。
https://mcas.jp/movie.html?id=749856540&video=2951362&player=flow&genre=453017945
期間限定で以下でご覧になれます。
https://mcas.jp/movie.html?id=749856540&video=2951362&player=flow&genre=453017945
posted by satonaoki at 11:38| NEWS
「ダイヤモンドオンライン」(2023年5月15日)に「『迷惑動画』はおバカな若者の暴走にすぎないのか?政治の劣化と共通する深刻問題」が掲載されました。
「ダイヤモンドオンライン」(2023年5月15日公開)に「『迷惑動画』はおバカな若者の暴走にすぎないのか?政治の劣化と共通する深刻問題」が掲載されました。迷惑動画も政治の劣化も共通しているのは、仲間ウチしか存在しない「世間」が肥大化することで、他者から構成される社会が意識から抜け落ちていることだと論じました。
内容は、以下でご覧になれます。
https://diamond.jp/articles/-/322870
なお、テキストはほぼ以下の通りです。
−
「迷惑動画」はおバカな若者の暴走にすぎないのか? 政治の劣化と共通する深刻問題
●迷惑動画頻発と「政治の劣化」
●社会の根深い構造問題に由来
若者による迷惑動画のSNSでの拡散が止まらない。
愛知県の回転寿司チェーン「くら寿司」の店舗で、しょうゆ差しのそそぎ口に口をつける動画を投稿したとして、3人の若者が威力業務妨害容疑で3月に逮捕された。
4月にも栃木県の焼き肉店で、使用後のつまようじを容器に戻す動画を投稿したとして、2人の男が偽計業務妨害の容疑で逮捕されている。
こうした店舗の業務を妨害する迷惑動画(不適切動画)の拡散は、「バカッター」や「バイトテロ」とよばれた2013年あたりから注目され始めたものだ。
いかにおバカな若者であっても、ちょっと考えれば、刑事や民事の両面で法的責任を問われるかもしれないという、結果の重大性はすぐに分かりそうなものだ。にもかかわらず、一向になくなる気配がないのはなぜなのか。
若者だけではなく、政治の世界でも首相秘書官が性的少数者(LGBTQ)や同性婚への差別発言で更迭されたりすることが起きている。
これらは一部の無思慮な人たちの暴走にすぎないのか?しかし私はここに、日本の社会構造に由来する根の深い問題が潜んでいると思う。
●ミウチの肥大化、社会の希薄化
●社会への意識が抜け落ちる現代
迷惑動画の頻発でまず考えられるのは、仲間ウチでの「承認欲求」の肥大化だ。
たしかに昔からおバカな若者はいたが、その時代と現在が決定的にちがうのは、インターネットの普及によって、拡散の速度や範囲が飛躍的に大きくなったことだ。このネットの影響力の急激な拡大が、承認欲求の肥大化を加速させている。
もちろん、他人から認められたいという感情は誰にでもあるだろう。だがそれが今や、とくに若者のあいだで強迫的なぐらいに広がっている。評価の基準は、「いいね」がどれだけ獲得できるか、どれだけ派手にウケるか、だ。
それにしても奇妙なのは、ネットは広く世界に開かれているという意味で「社会」にほかならないのだが、これに向けて発信しているという自覚がまるでないことだ。
そうなるのは、仲間ウチのSNS、つまり自分のミウチである「世間」にしか関心がなく、そこでウケることしか考えていないからだ。社会を構成する原理は「法のルール」なのだが、法を犯す可能性があることが自覚できず、そのため動画の内容がどんどんエスカレートし過激になる。
この点で興味深いのは、2016年の『君の名は。』に続き、19年にヒットした新海誠監督新海誠監督のアニメ映画『天気の子』である。「セカイ系」とよばれるこれらの映画では、恋愛などの男女の個人的な営みがそのまま、隕石の衝突や気候危機といった世界の大問題に直結して描かれる。
社会学者の土井隆義さんは、セカイ系では中間項の社会の領域が欠落し、社会自体を変えようという発想がないという。また日本青少年研究所の高校生の生活意識調査では、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた若者が、1980年の約25%に比べて2011年には約57%と倍増しているそうだ。
ここに示されているのは、近年若者の社会にたいする意識がどんどん希薄になっていることだ。
迷惑動画拡散の背景にあるのは、仲間ウチである世間の肥大化によって、若者のあいだで社会が見えなくなっていることだろう。
とはいえ、社会が見えていないという意味では、これが若者に特有の問題であるとはいえない。根が深いと思うのはこの点だ。
●政治の世界でも社会が抜け落ちる
●首相秘書官の外遊や差別発言
意外に思われるかもしれないが、大人であるはずの政治家だって、社会が見えていないのではないか。
日本では、政権をめぐって「政治の劣化」が問題化して久しい。たとえば昨年10月に、岸田文雄首相は自分の長男・翔太郎氏を政務秘書官に起用したが、国会で「適材適所の観点から総合的に判断をした」と開き直った。
1月の首相の欧米訪問時にも、長男が首相に随行して観光地を公用車で廻ったり、お土産を買い込んでいたことが発覚し批判を受けた。
安倍政権や菅政権でもミウチへの利益供与が酷かったが、これらは、たんなる「身びいき」や「公私混同」の問題ではない。深刻なのは、首相のアタマのなかに自分のミウチである「世間」しかなく、そのソトにあるはずの社会がすっぽり抜け落ちていることだ。
また、2月には荒井勝喜元首相秘書官(当時)が、「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと、性的少数者を傷つける差別的な発言をおこない更迭された。この報道自体が、「オフレコ破り」だとの批判もあったが、荒井秘書官さんは、まさに記者団という仲間ウチの世間での発言なので問題にならないと、高を括っていたのであろう。
だがホンネともいうべき彼のこの発言は、社会という観点からいえば、まったく許されないものだ。更迭は当然といえるが、ここでも彼のアタマのなかから、世間のソトにあるはずの社会が完全に抜け落ちているのだ。
●世間がホンネ、社会はタテマエ
●「二重構造」を生きる日本人
では、社会と世間はいったい何がちがうのか。
そもそも世間は、『万葉集』の時代から連綿と続く日本に固有の人間関係だ。つまり1200年以上の伝統がある。一方、社会は江戸時代にはなく、明治時代の近代化=西欧化にともなって輸入された舶来品にすぎない。ただし面白いことに、歴史学者の阿部謹也さんによれば、かつてヨーロッパでも世間のような人間関係が存在したという。
しかしヨーロッパでは12世紀前後から、都市化の進展とキリスト教の浸透によって、それが、「法のルール」が支配するsociety に徐々に変わっていった。日本ではこの舶来品のsociety が社会と翻訳され、それから 140年ほど経過して、現在ではふつうに使われる言葉となったのだ。
問題は、明治以降日本人はこの伝統的な世間と、舶来品の社会の二重構造を生きることを余儀なくされたことである。しかも、現在でも世間につよく縛られているために、世間がホンネであって社会はタテマエにすぎない。
タテマエにすぎないから、社会に生きているという実感が乏しい。実感がないために、関心が自分の狭い世間に限定され、世間のソトの他者に見られているという感覚が薄い。薄いために、社会から見れば、それが明白に違法な行為であったり、非難されるべき言動であっても、世間の仲間ウチでの承認や支持のほうが優先される。
これは若者も政治家もかわらない。大事なのはミウチである世間なので、そこではホンネが語られる。社会の存在などタテマエにすぎず、他者の存在がアタマから脱落しているために、仲間ウチでのウケ狙いの言動や利益供与が頻発することになる。
●「社会変革」の気運が起きず
●閉塞感や無力感広がる懸念
じつは、社会と世間のちがいで一番大事なのは、「社会変革」という言葉はあるが、「世間変革」という言葉がないことだ。
阿部さんは、「社会は変革が可能であり、変革しうるものとされているが、『世間』を変えるという発想はない」という。つまり社会は変えられるが、世間は所与のものであって、そこでは諦念が人々を支配し、変えることができないものとみなされている。
私が危惧するのは、いま世間が肥大化することで、変革の可能性もつはずの社会がますます見えなくなり、その結果、「この先も何も変わらない」という閉塞感や無力感が人々のあいだで広がっていることだ。
近年の迷惑動画の頻発や「政治の劣化」は、この日本が陥っている深刻な状況を象徴しているといえる。
内容は、以下でご覧になれます。
https://diamond.jp/articles/-/322870
なお、テキストはほぼ以下の通りです。
−
「迷惑動画」はおバカな若者の暴走にすぎないのか? 政治の劣化と共通する深刻問題
●迷惑動画頻発と「政治の劣化」
●社会の根深い構造問題に由来
若者による迷惑動画のSNSでの拡散が止まらない。
愛知県の回転寿司チェーン「くら寿司」の店舗で、しょうゆ差しのそそぎ口に口をつける動画を投稿したとして、3人の若者が威力業務妨害容疑で3月に逮捕された。
4月にも栃木県の焼き肉店で、使用後のつまようじを容器に戻す動画を投稿したとして、2人の男が偽計業務妨害の容疑で逮捕されている。
こうした店舗の業務を妨害する迷惑動画(不適切動画)の拡散は、「バカッター」や「バイトテロ」とよばれた2013年あたりから注目され始めたものだ。
いかにおバカな若者であっても、ちょっと考えれば、刑事や民事の両面で法的責任を問われるかもしれないという、結果の重大性はすぐに分かりそうなものだ。にもかかわらず、一向になくなる気配がないのはなぜなのか。
若者だけではなく、政治の世界でも首相秘書官が性的少数者(LGBTQ)や同性婚への差別発言で更迭されたりすることが起きている。
これらは一部の無思慮な人たちの暴走にすぎないのか?しかし私はここに、日本の社会構造に由来する根の深い問題が潜んでいると思う。
●ミウチの肥大化、社会の希薄化
●社会への意識が抜け落ちる現代
迷惑動画の頻発でまず考えられるのは、仲間ウチでの「承認欲求」の肥大化だ。
たしかに昔からおバカな若者はいたが、その時代と現在が決定的にちがうのは、インターネットの普及によって、拡散の速度や範囲が飛躍的に大きくなったことだ。このネットの影響力の急激な拡大が、承認欲求の肥大化を加速させている。
もちろん、他人から認められたいという感情は誰にでもあるだろう。だがそれが今や、とくに若者のあいだで強迫的なぐらいに広がっている。評価の基準は、「いいね」がどれだけ獲得できるか、どれだけ派手にウケるか、だ。
それにしても奇妙なのは、ネットは広く世界に開かれているという意味で「社会」にほかならないのだが、これに向けて発信しているという自覚がまるでないことだ。
そうなるのは、仲間ウチのSNS、つまり自分のミウチである「世間」にしか関心がなく、そこでウケることしか考えていないからだ。社会を構成する原理は「法のルール」なのだが、法を犯す可能性があることが自覚できず、そのため動画の内容がどんどんエスカレートし過激になる。
この点で興味深いのは、2016年の『君の名は。』に続き、19年にヒットした新海誠監督新海誠監督のアニメ映画『天気の子』である。「セカイ系」とよばれるこれらの映画では、恋愛などの男女の個人的な営みがそのまま、隕石の衝突や気候危機といった世界の大問題に直結して描かれる。
社会学者の土井隆義さんは、セカイ系では中間項の社会の領域が欠落し、社会自体を変えようという発想がないという。また日本青少年研究所の高校生の生活意識調査では、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた若者が、1980年の約25%に比べて2011年には約57%と倍増しているそうだ。
ここに示されているのは、近年若者の社会にたいする意識がどんどん希薄になっていることだ。
迷惑動画拡散の背景にあるのは、仲間ウチである世間の肥大化によって、若者のあいだで社会が見えなくなっていることだろう。
とはいえ、社会が見えていないという意味では、これが若者に特有の問題であるとはいえない。根が深いと思うのはこの点だ。
●政治の世界でも社会が抜け落ちる
●首相秘書官の外遊や差別発言
意外に思われるかもしれないが、大人であるはずの政治家だって、社会が見えていないのではないか。
日本では、政権をめぐって「政治の劣化」が問題化して久しい。たとえば昨年10月に、岸田文雄首相は自分の長男・翔太郎氏を政務秘書官に起用したが、国会で「適材適所の観点から総合的に判断をした」と開き直った。
1月の首相の欧米訪問時にも、長男が首相に随行して観光地を公用車で廻ったり、お土産を買い込んでいたことが発覚し批判を受けた。
安倍政権や菅政権でもミウチへの利益供与が酷かったが、これらは、たんなる「身びいき」や「公私混同」の問題ではない。深刻なのは、首相のアタマのなかに自分のミウチである「世間」しかなく、そのソトにあるはずの社会がすっぽり抜け落ちていることだ。
また、2月には荒井勝喜元首相秘書官(当時)が、「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと、性的少数者を傷つける差別的な発言をおこない更迭された。この報道自体が、「オフレコ破り」だとの批判もあったが、荒井秘書官さんは、まさに記者団という仲間ウチの世間での発言なので問題にならないと、高を括っていたのであろう。
だがホンネともいうべき彼のこの発言は、社会という観点からいえば、まったく許されないものだ。更迭は当然といえるが、ここでも彼のアタマのなかから、世間のソトにあるはずの社会が完全に抜け落ちているのだ。
●世間がホンネ、社会はタテマエ
●「二重構造」を生きる日本人
では、社会と世間はいったい何がちがうのか。
そもそも世間は、『万葉集』の時代から連綿と続く日本に固有の人間関係だ。つまり1200年以上の伝統がある。一方、社会は江戸時代にはなく、明治時代の近代化=西欧化にともなって輸入された舶来品にすぎない。ただし面白いことに、歴史学者の阿部謹也さんによれば、かつてヨーロッパでも世間のような人間関係が存在したという。
しかしヨーロッパでは12世紀前後から、都市化の進展とキリスト教の浸透によって、それが、「法のルール」が支配するsociety に徐々に変わっていった。日本ではこの舶来品のsociety が社会と翻訳され、それから 140年ほど経過して、現在ではふつうに使われる言葉となったのだ。
問題は、明治以降日本人はこの伝統的な世間と、舶来品の社会の二重構造を生きることを余儀なくされたことである。しかも、現在でも世間につよく縛られているために、世間がホンネであって社会はタテマエにすぎない。
タテマエにすぎないから、社会に生きているという実感が乏しい。実感がないために、関心が自分の狭い世間に限定され、世間のソトの他者に見られているという感覚が薄い。薄いために、社会から見れば、それが明白に違法な行為であったり、非難されるべき言動であっても、世間の仲間ウチでの承認や支持のほうが優先される。
これは若者も政治家もかわらない。大事なのはミウチである世間なので、そこではホンネが語られる。社会の存在などタテマエにすぎず、他者の存在がアタマから脱落しているために、仲間ウチでのウケ狙いの言動や利益供与が頻発することになる。
●「社会変革」の気運が起きず
●閉塞感や無力感広がる懸念
じつは、社会と世間のちがいで一番大事なのは、「社会変革」という言葉はあるが、「世間変革」という言葉がないことだ。
阿部さんは、「社会は変革が可能であり、変革しうるものとされているが、『世間』を変えるという発想はない」という。つまり社会は変えられるが、世間は所与のものであって、そこでは諦念が人々を支配し、変えることができないものとみなされている。
私が危惧するのは、いま世間が肥大化することで、変革の可能性もつはずの社会がますます見えなくなり、その結果、「この先も何も変わらない」という閉塞感や無力感が人々のあいだで広がっていることだ。
近年の迷惑動画の頻発や「政治の劣化」は、この日本が陥っている深刻な状況を象徴しているといえる。
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