2023年5月11日(木)朝「TOKYO MX テレビ」の「堀潤モーニングFRAG」「激論サミット」という番組にビデオ出演しました。テーマは「マスク外す宣言で星野リゾート炎上 なぜ起きる?マスク分断」です。政府の「個人の判断」という同調圧力頼りの政策は無責任だとコメントしました。
期間限定で以下でご覧になれます。
https://mcas.jp/movie.html?id=749856540&video=2951362&player=flow&genre=453017945
2023年05月15日
2023年5月11日(木)「TOKYO MX テレビ」「堀潤モーニングFRAG」の「激論サミット」にビデオ出演しコメントしました。
posted by satonaoki at 11:38| NEWS
「ダイヤモンドオンライン」(2023年5月15日)に「『迷惑動画』はおバカな若者の暴走にすぎないのか?政治の劣化と共通する深刻問題」が掲載されました。
「ダイヤモンドオンライン」(2023年5月15日公開)に「『迷惑動画』はおバカな若者の暴走にすぎないのか?政治の劣化と共通する深刻問題」が掲載されました。迷惑動画も政治の劣化も共通しているのは、仲間ウチしか存在しない「世間」が肥大化することで、他者から構成される社会が意識から抜け落ちていることだと論じました。
内容は、以下でご覧になれます。
https://diamond.jp/articles/-/322870
なお、テキストはほぼ以下の通りです。
−
「迷惑動画」はおバカな若者の暴走にすぎないのか? 政治の劣化と共通する深刻問題
●迷惑動画頻発と「政治の劣化」
●社会の根深い構造問題に由来
若者による迷惑動画のSNSでの拡散が止まらない。
愛知県の回転寿司チェーン「くら寿司」の店舗で、しょうゆ差しのそそぎ口に口をつける動画を投稿したとして、3人の若者が威力業務妨害容疑で3月に逮捕された。
4月にも栃木県の焼き肉店で、使用後のつまようじを容器に戻す動画を投稿したとして、2人の男が偽計業務妨害の容疑で逮捕されている。
こうした店舗の業務を妨害する迷惑動画(不適切動画)の拡散は、「バカッター」や「バイトテロ」とよばれた2013年あたりから注目され始めたものだ。
いかにおバカな若者であっても、ちょっと考えれば、刑事や民事の両面で法的責任を問われるかもしれないという、結果の重大性はすぐに分かりそうなものだ。にもかかわらず、一向になくなる気配がないのはなぜなのか。
若者だけではなく、政治の世界でも首相秘書官が性的少数者(LGBTQ)や同性婚への差別発言で更迭されたりすることが起きている。
これらは一部の無思慮な人たちの暴走にすぎないのか?しかし私はここに、日本の社会構造に由来する根の深い問題が潜んでいると思う。
●ミウチの肥大化、社会の希薄化
●社会への意識が抜け落ちる現代
迷惑動画の頻発でまず考えられるのは、仲間ウチでの「承認欲求」の肥大化だ。
たしかに昔からおバカな若者はいたが、その時代と現在が決定的にちがうのは、インターネットの普及によって、拡散の速度や範囲が飛躍的に大きくなったことだ。このネットの影響力の急激な拡大が、承認欲求の肥大化を加速させている。
もちろん、他人から認められたいという感情は誰にでもあるだろう。だがそれが今や、とくに若者のあいだで強迫的なぐらいに広がっている。評価の基準は、「いいね」がどれだけ獲得できるか、どれだけ派手にウケるか、だ。
それにしても奇妙なのは、ネットは広く世界に開かれているという意味で「社会」にほかならないのだが、これに向けて発信しているという自覚がまるでないことだ。
そうなるのは、仲間ウチのSNS、つまり自分のミウチである「世間」にしか関心がなく、そこでウケることしか考えていないからだ。社会を構成する原理は「法のルール」なのだが、法を犯す可能性があることが自覚できず、そのため動画の内容がどんどんエスカレートし過激になる。
この点で興味深いのは、2016年の『君の名は。』に続き、19年にヒットした新海誠監督新海誠監督のアニメ映画『天気の子』である。「セカイ系」とよばれるこれらの映画では、恋愛などの男女の個人的な営みがそのまま、隕石の衝突や気候危機といった世界の大問題に直結して描かれる。
社会学者の土井隆義さんは、セカイ系では中間項の社会の領域が欠落し、社会自体を変えようという発想がないという。また日本青少年研究所の高校生の生活意識調査では、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた若者が、1980年の約25%に比べて2011年には約57%と倍増しているそうだ。
ここに示されているのは、近年若者の社会にたいする意識がどんどん希薄になっていることだ。
迷惑動画拡散の背景にあるのは、仲間ウチである世間の肥大化によって、若者のあいだで社会が見えなくなっていることだろう。
とはいえ、社会が見えていないという意味では、これが若者に特有の問題であるとはいえない。根が深いと思うのはこの点だ。
●政治の世界でも社会が抜け落ちる
●首相秘書官の外遊や差別発言
意外に思われるかもしれないが、大人であるはずの政治家だって、社会が見えていないのではないか。
日本では、政権をめぐって「政治の劣化」が問題化して久しい。たとえば昨年10月に、岸田文雄首相は自分の長男・翔太郎氏を政務秘書官に起用したが、国会で「適材適所の観点から総合的に判断をした」と開き直った。
1月の首相の欧米訪問時にも、長男が首相に随行して観光地を公用車で廻ったり、お土産を買い込んでいたことが発覚し批判を受けた。
安倍政権や菅政権でもミウチへの利益供与が酷かったが、これらは、たんなる「身びいき」や「公私混同」の問題ではない。深刻なのは、首相のアタマのなかに自分のミウチである「世間」しかなく、そのソトにあるはずの社会がすっぽり抜け落ちていることだ。
また、2月には荒井勝喜元首相秘書官(当時)が、「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと、性的少数者を傷つける差別的な発言をおこない更迭された。この報道自体が、「オフレコ破り」だとの批判もあったが、荒井秘書官さんは、まさに記者団という仲間ウチの世間での発言なので問題にならないと、高を括っていたのであろう。
だがホンネともいうべき彼のこの発言は、社会という観点からいえば、まったく許されないものだ。更迭は当然といえるが、ここでも彼のアタマのなかから、世間のソトにあるはずの社会が完全に抜け落ちているのだ。
●世間がホンネ、社会はタテマエ
●「二重構造」を生きる日本人
では、社会と世間はいったい何がちがうのか。
そもそも世間は、『万葉集』の時代から連綿と続く日本に固有の人間関係だ。つまり1200年以上の伝統がある。一方、社会は江戸時代にはなく、明治時代の近代化=西欧化にともなって輸入された舶来品にすぎない。ただし面白いことに、歴史学者の阿部謹也さんによれば、かつてヨーロッパでも世間のような人間関係が存在したという。
しかしヨーロッパでは12世紀前後から、都市化の進展とキリスト教の浸透によって、それが、「法のルール」が支配するsociety に徐々に変わっていった。日本ではこの舶来品のsociety が社会と翻訳され、それから 140年ほど経過して、現在ではふつうに使われる言葉となったのだ。
問題は、明治以降日本人はこの伝統的な世間と、舶来品の社会の二重構造を生きることを余儀なくされたことである。しかも、現在でも世間につよく縛られているために、世間がホンネであって社会はタテマエにすぎない。
タテマエにすぎないから、社会に生きているという実感が乏しい。実感がないために、関心が自分の狭い世間に限定され、世間のソトの他者に見られているという感覚が薄い。薄いために、社会から見れば、それが明白に違法な行為であったり、非難されるべき言動であっても、世間の仲間ウチでの承認や支持のほうが優先される。
これは若者も政治家もかわらない。大事なのはミウチである世間なので、そこではホンネが語られる。社会の存在などタテマエにすぎず、他者の存在がアタマから脱落しているために、仲間ウチでのウケ狙いの言動や利益供与が頻発することになる。
●「社会変革」の気運が起きず
●閉塞感や無力感広がる懸念
じつは、社会と世間のちがいで一番大事なのは、「社会変革」という言葉はあるが、「世間変革」という言葉がないことだ。
阿部さんは、「社会は変革が可能であり、変革しうるものとされているが、『世間』を変えるという発想はない」という。つまり社会は変えられるが、世間は所与のものであって、そこでは諦念が人々を支配し、変えることができないものとみなされている。
私が危惧するのは、いま世間が肥大化することで、変革の可能性もつはずの社会がますます見えなくなり、その結果、「この先も何も変わらない」という閉塞感や無力感が人々のあいだで広がっていることだ。
近年の迷惑動画の頻発や「政治の劣化」は、この日本が陥っている深刻な状況を象徴しているといえる。
内容は、以下でご覧になれます。
https://diamond.jp/articles/-/322870
なお、テキストはほぼ以下の通りです。
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「迷惑動画」はおバカな若者の暴走にすぎないのか? 政治の劣化と共通する深刻問題
●迷惑動画頻発と「政治の劣化」
●社会の根深い構造問題に由来
若者による迷惑動画のSNSでの拡散が止まらない。
愛知県の回転寿司チェーン「くら寿司」の店舗で、しょうゆ差しのそそぎ口に口をつける動画を投稿したとして、3人の若者が威力業務妨害容疑で3月に逮捕された。
4月にも栃木県の焼き肉店で、使用後のつまようじを容器に戻す動画を投稿したとして、2人の男が偽計業務妨害の容疑で逮捕されている。
こうした店舗の業務を妨害する迷惑動画(不適切動画)の拡散は、「バカッター」や「バイトテロ」とよばれた2013年あたりから注目され始めたものだ。
いかにおバカな若者であっても、ちょっと考えれば、刑事や民事の両面で法的責任を問われるかもしれないという、結果の重大性はすぐに分かりそうなものだ。にもかかわらず、一向になくなる気配がないのはなぜなのか。
若者だけではなく、政治の世界でも首相秘書官が性的少数者(LGBTQ)や同性婚への差別発言で更迭されたりすることが起きている。
これらは一部の無思慮な人たちの暴走にすぎないのか?しかし私はここに、日本の社会構造に由来する根の深い問題が潜んでいると思う。
●ミウチの肥大化、社会の希薄化
●社会への意識が抜け落ちる現代
迷惑動画の頻発でまず考えられるのは、仲間ウチでの「承認欲求」の肥大化だ。
たしかに昔からおバカな若者はいたが、その時代と現在が決定的にちがうのは、インターネットの普及によって、拡散の速度や範囲が飛躍的に大きくなったことだ。このネットの影響力の急激な拡大が、承認欲求の肥大化を加速させている。
もちろん、他人から認められたいという感情は誰にでもあるだろう。だがそれが今や、とくに若者のあいだで強迫的なぐらいに広がっている。評価の基準は、「いいね」がどれだけ獲得できるか、どれだけ派手にウケるか、だ。
それにしても奇妙なのは、ネットは広く世界に開かれているという意味で「社会」にほかならないのだが、これに向けて発信しているという自覚がまるでないことだ。
そうなるのは、仲間ウチのSNS、つまり自分のミウチである「世間」にしか関心がなく、そこでウケることしか考えていないからだ。社会を構成する原理は「法のルール」なのだが、法を犯す可能性があることが自覚できず、そのため動画の内容がどんどんエスカレートし過激になる。
この点で興味深いのは、2016年の『君の名は。』に続き、19年にヒットした新海誠監督新海誠監督のアニメ映画『天気の子』である。「セカイ系」とよばれるこれらの映画では、恋愛などの男女の個人的な営みがそのまま、隕石の衝突や気候危機といった世界の大問題に直結して描かれる。
社会学者の土井隆義さんは、セカイ系では中間項の社会の領域が欠落し、社会自体を変えようという発想がないという。また日本青少年研究所の高校生の生活意識調査では、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた若者が、1980年の約25%に比べて2011年には約57%と倍増しているそうだ。
ここに示されているのは、近年若者の社会にたいする意識がどんどん希薄になっていることだ。
迷惑動画拡散の背景にあるのは、仲間ウチである世間の肥大化によって、若者のあいだで社会が見えなくなっていることだろう。
とはいえ、社会が見えていないという意味では、これが若者に特有の問題であるとはいえない。根が深いと思うのはこの点だ。
●政治の世界でも社会が抜け落ちる
●首相秘書官の外遊や差別発言
意外に思われるかもしれないが、大人であるはずの政治家だって、社会が見えていないのではないか。
日本では、政権をめぐって「政治の劣化」が問題化して久しい。たとえば昨年10月に、岸田文雄首相は自分の長男・翔太郎氏を政務秘書官に起用したが、国会で「適材適所の観点から総合的に判断をした」と開き直った。
1月の首相の欧米訪問時にも、長男が首相に随行して観光地を公用車で廻ったり、お土産を買い込んでいたことが発覚し批判を受けた。
安倍政権や菅政権でもミウチへの利益供与が酷かったが、これらは、たんなる「身びいき」や「公私混同」の問題ではない。深刻なのは、首相のアタマのなかに自分のミウチである「世間」しかなく、そのソトにあるはずの社会がすっぽり抜け落ちていることだ。
また、2月には荒井勝喜元首相秘書官(当時)が、「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと、性的少数者を傷つける差別的な発言をおこない更迭された。この報道自体が、「オフレコ破り」だとの批判もあったが、荒井秘書官さんは、まさに記者団という仲間ウチの世間での発言なので問題にならないと、高を括っていたのであろう。
だがホンネともいうべき彼のこの発言は、社会という観点からいえば、まったく許されないものだ。更迭は当然といえるが、ここでも彼のアタマのなかから、世間のソトにあるはずの社会が完全に抜け落ちているのだ。
●世間がホンネ、社会はタテマエ
●「二重構造」を生きる日本人
では、社会と世間はいったい何がちがうのか。
そもそも世間は、『万葉集』の時代から連綿と続く日本に固有の人間関係だ。つまり1200年以上の伝統がある。一方、社会は江戸時代にはなく、明治時代の近代化=西欧化にともなって輸入された舶来品にすぎない。ただし面白いことに、歴史学者の阿部謹也さんによれば、かつてヨーロッパでも世間のような人間関係が存在したという。
しかしヨーロッパでは12世紀前後から、都市化の進展とキリスト教の浸透によって、それが、「法のルール」が支配するsociety に徐々に変わっていった。日本ではこの舶来品のsociety が社会と翻訳され、それから 140年ほど経過して、現在ではふつうに使われる言葉となったのだ。
問題は、明治以降日本人はこの伝統的な世間と、舶来品の社会の二重構造を生きることを余儀なくされたことである。しかも、現在でも世間につよく縛られているために、世間がホンネであって社会はタテマエにすぎない。
タテマエにすぎないから、社会に生きているという実感が乏しい。実感がないために、関心が自分の狭い世間に限定され、世間のソトの他者に見られているという感覚が薄い。薄いために、社会から見れば、それが明白に違法な行為であったり、非難されるべき言動であっても、世間の仲間ウチでの承認や支持のほうが優先される。
これは若者も政治家もかわらない。大事なのはミウチである世間なので、そこではホンネが語られる。社会の存在などタテマエにすぎず、他者の存在がアタマから脱落しているために、仲間ウチでのウケ狙いの言動や利益供与が頻発することになる。
●「社会変革」の気運が起きず
●閉塞感や無力感広がる懸念
じつは、社会と世間のちがいで一番大事なのは、「社会変革」という言葉はあるが、「世間変革」という言葉がないことだ。
阿部さんは、「社会は変革が可能であり、変革しうるものとされているが、『世間』を変えるという発想はない」という。つまり社会は変えられるが、世間は所与のものであって、そこでは諦念が人々を支配し、変えることができないものとみなされている。
私が危惧するのは、いま世間が肥大化することで、変革の可能性もつはずの社会がますます見えなくなり、その結果、「この先も何も変わらない」という閉塞感や無力感が人々のあいだで広がっていることだ。
近年の迷惑動画の頻発や「政治の劣化」は、この日本が陥っている深刻な状況を象徴しているといえる。
posted by satonaoki at 11:16| NEWS