2019年05月12日

「北海道新聞」(2019年5月10日)に「不適切動画と政治家失言」が掲載されました。

 「北海道新聞」(2019年5月10日)の「各自核論」コーナーに、「不適切動画と政治家失言−希薄な社会意識根深く」が掲載されました。最近の若者の不適切動画の投稿と政治家の失言には共通点があり、それは両方とも「社会が見えていない」ことであると論じました。
 内容は以下の通りです。

 若者による不適切動画のネット投稿が止まらない。2月には、「くら寿司」「セブン−イレブン」などで悪ふざけ動画の投稿が相次いで発覚した。被害を受けた運営会社などは、刑事告訴や損害賠償請求などを検討。また4月にも、渋谷交差点で男性が寝そべった状態のベッドを置く動画が投稿され、警視庁が道交法違反容疑で捜査しているという。
 ちょっと考えれば、結果の重大さはすぐに分かりそうなものだが、いったいなぜこうも頻発するのか? たんに無思慮な若者のおバカな暴走にすぎないのか。しかし私にはここに、日本の社会構造に由来する根の深い問題が潜んでいると思える。
 これまで多く指摘されているのは、仲間ウチでの「承認欲求」の肥大化である。もちろん、他人から認められたいという感情は誰でもあると思う。だがそれが今や、とくに若者の間で強迫的なぐらいに広がっている。評価の基準は、SNS(会員交流サイト)で「いいね!」がどれだけ獲得できるか、どれだけ多くの人に注目されるか、どれだけ派手に受けるか、である。
 それにしても奇妙なのは、ネットは世界に広く開かれているという意味で「社会」に他ならないのだが、これに向けて発信している自覚がまるでないことだ。仲間ウチのSNS、つまり自分のミウチである「世間」にしか関心がなく、そこで受けることしか考えていない。このため動画の内容がどんどんエスカレートし過激になる。
 とはいえ、社会が見えていないという意味では、これは若者だけに特有の問題であるとはいえない。根が深いと思うのはこの点である。意外に思われるかもしれないが、じつは近年頻発する政治家の失言も、若者の不適切動画の投稿と本質は変わらない。
 たとえば2月に麻生太郎副総理が、地元集会で少子高齢化問題をめぐって「子どもを産まなかった方が問題」と発言。4月には塚田一郎国交副大臣が、選挙集会で地元の道路整備をめぐって総理・副総理へ「私が忖度した」発言で更迭。さらに桜田義孝五輪担当大臣が、自民党衆議院議員のパーティーで議員の名前をあげて「復興以上に大事」と発言し更迭された。
 いずれも仲間ウチである支持者を前にした発言であり、ある意味ホンネといってよいのだが、社会という観点からはまったく許されない失言である。にもかかわらず若者も政治家も、なぜこれほどまでに社会という意識が希薄なのか。
 「世間」は万葉の時代以来千年以上の歴史があるが、そもそも「社会」は江戸時代にはなく、近代化=西欧化によってsociety を翻訳した舶来品にすぎない。明治以降日本人は、この伝統的な世間と、舶来品の社会の二重構造を生きることを余儀なくされた。しかも現在でも世間につよく縛られているために、世間がホンネであって、社会はタテマエにすぎない。
 タテマエにすぎないので、社会に生きているという実感が乏しい。実感がないために、興味がまわりの狭い世間に限定される。世間のソトの人間、つまり他者に見られているという感覚がないので、それが社会からすれば明白に違法な行為であったり、厳しく非難される言動であっても、世間のウチでの承認や支持のほうが優先される。
 これは若者も政治家も何ら変わらない。大事なのはミウチである世間なので、そこではホンネが語られる。社会の存在などタテマエにすぎず、他者の存在も頭から完全に脱落しているために、仲間ウチで受け狙いの過激な言動が頻発することになる。
 私は日本の社会問題の殆どは、この二重構造に由来すると考えている。このことの徹底した自覚なしには、この先も不適切動画の投稿や政治家の失言を止めるのは難しい。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれ。現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「目くじら社会の人間関係」「犯罪の世間学」など多数。








posted by satonaoki at 12:31| NEWS