2021年08月05日

「リベラルタイム」(2021年9月号)に「『法律』」より『世間』が強い二重構造の日本社会」が掲載されました。        

 月刊「リベラルタイム」2021年9月号(8月3日発売)の「『同調圧力』にかすむ『正論』」という特集記事に、「『法律』より『世間』が強い二重構造の日本社会」が掲載されました。   
  https://www.fujisan.co.jp/product/1276354/new/

 なお内容は以下の通りです。

 ●「法律」より「世間」が強い二重構造の日本社会
  
 世間のルール

 昨年来の新型コロナ禍が図らずも露呈させたのは、日本における同調圧力の強さだ。
 もちろんコロナ禍は一種の「非常事態」であるといってよいから、他の国でも同調圧力がまったくなかったわけではない。しかし、欧米ではまず見られなかった「自粛警察」「マスク警察」「県外ナンパー狩り」などに象徴されるような、この国の同調圧力の異様な強さは、現在の欧米にはない「世間」の存在を考えないと説明がつかない。
 昨年来のコロナへの各国政府の対応において、欧米では都市のロックダウン、外出・営業禁止命令やマスク着用義務などの、「法のルール」にもとづく「命令と罰則」という強硬な手段をとった。こうなるのは、強制的な「法のルール」で規制したとしても、ごく普通に「ロックダウン反対」「営業禁止反対」「マスク着用義務反対」などのデモがおき、人びとが政府のいうことに簡単には従わないからだ。
 だが日本では、そんなデモは絶対におきない。それどころか「命令と罰則」なしの営業自粛や時短要請などの、きわめてゆるい「自粛と要請」レベルにとどまった。にもかかわらず結果的には、欧米以上に感染者数や死者数を抑えることができた。
 これで必要かつ十分だったのは、まさに「自粛警察」が典型といえるが、自粛や要請に応じていないお店があると、入り口ドアに張り紙をするなど、まわりから「空気読め」(KY)という強い同調圧力がかかるためである。つまり日本では、自然発生的に「空気読め」という「世間のルール」が立ち上がり、欧米のハードな罰則付きの「法のルール」と同じような強制力を発揮したことになる。
 
 「空気」は妖怪

 かつて山本七平は、空気を「大きな絶対権をもった妖怪」だと喝破した。2007年に「KY」が流行語大賞にノミネートされたように、「空気読め」はいまでも猛威をふるっている。空気を読み同調圧力に従わなければ、仲間ウチから排除される。日本はもともと同調圧力が強い国であるが、じつはこれを生み出しているのは日本独特の「世間」である。
 では、「世間」とはいったい何か?
 「世間」は人間関係のあり方であるが、英語に翻訳できない。society でもworld でも、community でもない。概念が存在しないということは、少なくとも英語圏では現実に存在しないということだ。
 「世間」は一千年以上の歴史があり、『万葉集』の山上憶良の「貧窮問答歌」にも登場する。それと現在の「世間」という言葉の使い方は、まったく変わらない。つまり、これだけスマホが発達しコミュニケーション手段が大きく変わっているにもかかわらず、日本人の人間関係のあり方は、1000年以上ほとんど変わっていないといってよい。
ここでは詳細に触れることはできないが、「世間」はきわめて古い歴史をもつため、そこには沢山の伝統的な「世間のルール」が存在する。日本人は「世間」にがんじがらめにしばられてきたが故に、これらの「世間のルール」をじつに律儀に守ってきた。
 意外に思われるかもしれないが、じつは欧州でも12世紀以前には、日本の「世間」と同じような人間関係が存在し、人びとは現在日本にあるような「世間のルール」にしばられていた。しかしこの「世間」は、都市化やキリスト教の支配などによって次第に消滅し、「法のルール」から構成されるsociety に徐々に変わったのだ。
 これが明治時代の近代化=西欧化とともに輸入され、1877年ごろに「社会」と新しく造語された。当時の人がsociety をそれまで存在した「世間」と訳さなかったのは、それが人間の尊厳や権利と一体の概念であり、江戸時代まではなかったことが分かったからだ。慧眼というべきだろう。
 
 「二重構造」の日本社会

 日本は明治以降、政治・法制度や科学技術の近代化=西欧化には圧倒的に成功した。しかし、そうした制度を支える人間関係の近代化=西欧化には失敗した。「法のルール」を基本とする社会は、いまはふつうに使われる言葉だが、society とは似て非なるものである。つまり社会という言葉はあるが、現在でも実体がともなっていないのだ。
 それゆえ、「世間」が消滅した現在の欧米には、「法のルール」を基本とする社会しかないが、明治以降の日本は、伝統的な「世間」と近代的な社会の二重構造に支配されることになった。この二重構造がやっかいな点は、土台である「世間」の上に社会がちょこんと乗っかった形をしていて、あくまでも社会(法のルール)はタテマエとみなされ、「世間」(のルール)がホンネとして機能していることだ。
 たとえば、今回のコロナ禍では感染者の家に石が投げられたり、名前や住所などの個人情報がネットでさらされるなど、感染者に対する人権侵害が多発している。
 「法のルール」でもっとも大事なのは「権利」という概念だが、これは、社会に属する概念として、1886年ごろにright という言葉が輸入され、新しく造語されたものだ。また「人権」はhuman rightsの訳である。「正論」である権利や人権が「青二才のたわごと」などといわれ、日本の「世間」のなかで通用しないのは、これが自ら勝ち取ったものではなく、外部(西欧)からつけ加わったタテマエにすぎないからだ。
だから、感染者差別のような明らかな人権侵害がおきても、「世間」のなかにきわめて強い差別的な空気があり、「法のルール」がタテマエにすぎないために、同調圧力に抵抗して闘うことはきわめて難しい。欧米にも人種差別などの深刻な差別はあるが、「世間」が存在しないために、日本とは違って、権利や人権を主張し戦うことが可能なのだ。
おそらくこの先も日本では、欧米のように「世間」が消滅し社会に変わることはない。同調圧力で息苦しい「世間」の風通しを良くするためには、どうすればよいのか。たとえば、一人ひとりが「空気を読んでも従わない」という小さな勇気を持つことが大事だ。


posted by satonaoki at 12:24| NEWS