2022年07月05日

「ダイヤモンドオンライン」(2022年7月4日公開)に「知床観光船事故でも『土下座謝罪』、日本独自の儀式がなくならない理由」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2022年7月4日公開)に「知床観光船事故でも『土下座謝罪』、日本独自の儀式がなくならない理由」が掲載されました。
https://diamond.jp/articles/-/305550

内容は以下の通りです。
-
遊覧船沈没事故から2カ月
運航会社は事業停止に
 
14人が死亡し、12人がいまだ行方不明の知床遊覧船の沈没事故から約2カ月。国交省は6月16日に遊覧船の運航会社の事業認可を取り消す異例の処分を行った。
 今後は刑事責任がどのように問われるかだが、「世間」の批判は、事故の4日後、記者会見した運航会社の社長が土下座で謝罪した時点がピークで、それで“一件落着”したかのような空気もなくはない。
 不祥事や事故などが起きると、土下座で謝罪が繰り返されるのはなぜなのか。
 これには日本特有の背景がある。

社長の土下座に批判噴出でも
「一件落着」の空気漂う

 観光船の沈没事故では、「知床遊覧船」の桂田精一社長が4月27日に記者会見に臨み、冒頭で「皆さんこの度はお騒がせして大変申し訳ありませんでした」と謝罪し、約2時間半の会見中計3回土下座した。
 この社長の土下座について、ネットなどでは賛否両論があったが、「あまりに軽い」「本当に謝る気がない」「完全にパフォーマンス」「しておけばいい感しか伝わってこない」など、多くの批判が噴出した。
 だが不思議なのは、かなりの人が社長の土下座が本心からの謝罪ではないと思っているにもかかわらず、土下座をすることでなんとなく「世間」が納得し、いつしか批判が収束して「一件落着」の空気が漂ってしまうことだ。

欧米では理解不能の「dogeza」
「世間」への独特の謝罪文化
 
歴史的に土下座による謝罪が目立つようになったのは1990年代後半以降で、96年に薬害HIV訴訟で「ミドリ十字」の幹部が、被害者の原告に詰め寄られ土下座したころからだとされる。
 また、2019年にタレントの田口淳之介さんが、大麻取締法違反で逮捕され保釈された直後に、報道陣に土下座して謝罪したのは記憶に新しい。
 欧米では、土下座は「dogeza」とそのまま訳されており、そもそもあり得ないし、欧米人にはまったく理解不能の行為だ。
 日本で一定の批判があるにもかかわらず、いつまでも土下座がなくならないのはなぜなのか?
 私は、これには三つの理由があると考えている。

第一の理由は、その根底に日本に独特の謝罪文化があることだ。
 たとえば、日本で「すみません」という言葉は、謝罪以外の場面でも頻繁に使われる。心理学者の榎本博明さんの言うように、何かあったときに日本人がすぐに「すみません」という謝罪の言葉を多用するのは、場の雰囲気を和やかにし、相手がそれを壊すような態度を取りにくくして、物事をスムーズに運ぶためだ。
 謝罪会見の冒頭の「お騒がせして大変申し訳ありません」というセリフは、ネットでも「違和感を覚える」と話題になったが、実は、日本では、法的に責任があろうがなかろうが、ただちに「世間」に対して謝罪することが必須であるということだ。
「世間」が謝罪を要求するのはどうしてか?
 大きな事件や事故が起きたときに、「世間」の人々の共同感情が不安定になる。これが「世間を騒がせた」という状態だ。
 この不安定な状態を解消し、害された共同感情を元に戻すために、「世間」は企業などに「世間を騒がせて申し訳ない」という謝罪を求めるからだ。
 ところがアメリカでは、法的責任があるような場合でも、企業は会見で釈明はするが、めったに謝罪しない。うっかり謝罪すると法的責任を問われかねないからだ。
 それでも、「アイムソーリー」といって謝罪しなければならないことがあるだろう。病院で患者が亡くなったときに、医師が家族に「アイムソーリー(お気の毒です)」と言うような場合だ。
 そこで、カリフォルニア州などでは、医師が「アイムソーリー」と言っても、後に医療過誤訴訟で法的責任を問われないようにする、「アイムソーリー法」がわざわざ制定されているそうだ。
 やたらに「すみません」が使われる日本の謝罪文化は、欧米に比べるとかなり特異な文化であり、これが土下座のなくならない土壌となっているのだ。

自己肯定感」が低い日本人
個性や自己主張を封じられる教育

 第二の理由は、日本人の「自己肯定感」の低さである。
 欧米で土下座による謝罪が考えられないのは、それが、人格の不可侵性に由来する「人間の尊厳」に反する行為とみなされるからだろう。
「人間の尊厳」は民主主義の基本原理であり、たとえば、ドイツ基本法(憲法)は第1条の冒頭で、「人間の尊厳は不可侵である」と規定している。
 日本では、この種の「自尊感情」を生み出すはずの「自己肯定感」が、海外と比較して突出して低いことが、いくつかの調査で指摘されている。
 たとえば、2017年の国立青少年教育振興機構の高校生への調査では、日本で「私は価値のある人間だと思う」と回答したのは44.9%にすぎないが、アメリカは83.8%、中国は80.2%、韓国は83.7%だった。
 また、若者(13歳〜29歳)にたいする2018年の内閣府の調査でも、「自分自身に満足している」と「自分には長所があると感じている」に、「そう思う」と回答した割合は、それぞれ10.4%と16.3%だった。
 ところが、海外におけるこれらの質問への回答は、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンのいずれも、ほぼ30%台から50%台の間であり、日本は他国と比較して圧倒的に低い。
 そうなるのは、日本人が家庭で、欧米のように「他人とは違う個性的な人間になれ」と教育されるのではなく、「人に迷惑をかけない人間になれ」と言われて育つからだ。個性がつぶされるわけだから、これでは「自己肯定感」は育たない。
 また学校でも、ブラック校則に象徴されるように、画一的な集団行動が求められ、目立った行動を取ると「出るくいは打たれる」という格言の通り、徹底的につぶされる。
 さらに、職場でも年休を取りづらいなど、周りと同調することを強いられる。
 その結果、はっきりと自己主張するような人間は排除されるので、「自己肯定感」が低くなり、「どうせ自分なんか」と考えるようになる。
 これが、土下座のような、明らかに「自尊感情」をひどく傷つけるような行為を受け入れやすい理由となっているのだ。

謝罪の場にも神が存在
同調圧力で「最終兵器」化
 
第三の理由は、謝罪の場には神が存在することだ。
 もともと日本社会は欧米諸国と比べると、圧倒的に古い俗信・迷信を残しているため、日本人はきわめて信心深い。
 たとえば、コンビニによって仕掛けられた節分の「恵方巻き」の習慣が、2000年代以降にあっという間に全国に広がったのは、実は日本人が信心深いからだ。
 しかも一神教が原則の欧米と違って、多神教の日本では「八百万(やおよろず)の神」というように、森羅万象、至るところに神が宿っている。
 ここから、意外に思われるかもしれないが、謝罪の場にも神が存在することになる。つまり謝罪は神にも向けられている。それゆえ、土下座による謝罪を受け入れないのは難しい。
 たとえば、人気マンガ『どげせん』では、土下座を武器にひたすら頭を下げて要求を押し通し、難題を切り抜けてゆく高校教師が描かれている。
 この作品で象徴的なのは、教師が土下座するシーンがきわめて神秘的に、まるで宗教的儀式のように描かれていることだ。土下座の言葉は神主の祝詞のように響き、一種の呪力を持つことになる。
 土下座の場には神が存在するがゆえに、周りから「まあ、許してやれよ」という同調圧力が生じ、謝罪を受け入れざるを得なくさせるのである。
 確かに私たちは、誰かに突然土下座をされ謝罪された場合、それを理不尽な「暴力」だと感じる。こうした圧力を感じるのは、それが本心からの謝罪でないとしても、土下座という儀式が、「謝罪の最終兵器」として圧倒的な有効性を持っているからだ。
 土下座が「謝罪の最終兵器」であるために、近年は企業の謝罪だけでなく、個人の間でも手軽に使われるようになっている。圧倒的な効果があるという点で、これを好意的に見る人もいるかもしれない。
 だが私は、土下座をするのもさせるのも、「自尊感情」をひどく傷つける、「人間の尊厳」に反する行為であり、即刻やめるべきだと思っている。
 そうすることで、多少なりとも日本人の「自己肯定感」の意識のあり方を、変えてゆけるのではないかと思う。

(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹)
posted by satonaoki at 20:40| NEWS