2017年11月14日

「北海道新聞」(2017年10月14日)に「改元と歴史意識」が掲載されました。

2017年10月14日「北海道新聞」の「各自核論」のコーナーに「改元と歴史意識」が載りました。19年に天皇の退位にともなう改元がおこなわれることになったが、この際、元号を使うのはもうやめたらどうか、と主張したものです。
内容は以下の通りです。


  ●元号の使用 見直す機会に

 昨年8月に天皇の生前退位の意向表明があり、2019年の元日(または4月1日)には皇太子が即位して、元号が変わることになりそうだ。私は、とくに公文書では元号を使うべきでないと思っている。理由は、それが無用の不便や混乱をひき起こすからである。
 たとえば元号表記だと、明治20年と平成10年の間で何年間経過したのかは、いちいち西暦に換算するなどしないと分からない。また、たんに「10年」といわれたときに、それが2010年なのか平成10年なのか、にわかには判別できない。さらに私の運転免許証には、「平成31年02月08日まで有効」と書いてある。この年の元日に改元が実行されれば、免許の有効期限の日は永久に来ないという奇妙なことが起きる。
 とはいえ、元号の使用がはらむ問題は、たんに不便や混乱といった便宜的なものにとどまらない。私が最も危惧するのは、「一世一元の制」(元号法)に基づく元号の使用によって、歴史や時間の流れが唐突に、しかも無意味に切断されることである。つまり元号は、日本人の歴史意識のあり方と密接に関わっている。
 そもそも日本人は忘れっぽい。日本の「世間」の暦を眺めてみると分かるが、「元日」「七草」「節分」「ひな祭り」「彼岸」「花見」「端午の節句」「七夕」「お盆」「月見」「大晦日」など、年中行事といわれるものが年間を通じて続く。これらは、一年で完結し毎年くり返されるがゆえに、年単位の「円環的時間」という閉じた時間意識のなかにある。
 じつはこの時間意識がきわめて特異なのは、大晦日と元日の間に決定的断絶があることだ。日本人は、12月には「忘年会」を開いて、集団で一年の歴史的出来事を忘却し、大晦日の除夜の鐘とともにすべてチャラにした上で、元旦には「明けましておめでとう」といって新しい年を迎える。社会学者の内田芳明さんは、これを「非歴史化、無歴史化」と喝破するが、ここには歴史意識の明らかな断絶がある。忘れっぽいのは、このためなのだ。
 これにたいして西暦を生み出した西欧社会の時間意識は、キリストの生誕を基準として、2000余年の「直線的時間」の上にある。西欧にもクリスマスや復活祭のような毎年くり返される行事はあるが、それは2000余年持続する歴史的過程のなかにある点で、「世間」の年中行事とは決定的に異なる。つまり西暦では、キリスト生誕からの長い歴史の流れを意識せざるをえない。歴史意識が一年で断絶することはないのだ。
 もちろん、歴史的出来事を一年でチャラにして、「水に流す」ことが必要な場合もあろう。しかし問題は、「円環的時間」でモノを考えると、1年ごとに歴史が分断されてしまい、歴史を過去から未来にわたって、長期的に捉えるのがむずしかくなることだ。そのため日本人は、過去の歴史の総括の上に立って、未来にわたり長期的な展望を描くことが苦手である。
 ちなみに、お役所の文書で長期の予想を示す場合に、「平成70年度」といった表記をみかける。これなど悪い冗談としかいいようがないが、お役所が日本の未来を本気で考えているとは思えない。ようするに、歴史の流れを切断する元号の使用が、日本人の「円環的時間」の意識をますます強固にし、未来への長期的展望を描くことを妨げてきたのだ。
 元号の使用は、法的に強制されているわけではない。だが現在でもお役所の公文書では、事実上元号表記が強制されている。改元というせっかくのチャンスが到来するのだから、このさい公文書においては、西暦表記に統一すべきだと思う。

(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれの現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など多数。近著に「目くじら社会の人間関係」。










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2017年09月03日

「毎日新聞」(2017年9月3日)に「『忖度』とは何か」が掲載されました。

 2017年9月3日付け「毎日新聞」(西部本社版)に、「『忖度』とは何か−優先される『世間のルール』」が掲載されました。
 内容は以下の通りです。

 今年の流行語大賞、との呼び声も高い「忖度」という言葉。これが脚光を浴びるきっかけになったのは、森友学園問題だった。 3月23日に森友の籠池泰典前理事長は、外国特派員協会主催の会見で、国有地売却をめぐる外紙の記者の質問に答えて、「(周囲が)安倍首相または安倍首相夫人の意志を忖度して動いたのではないか」と語っている。
 この場で予想外のことが起きた。通訳がこの忖度を「推測する」「行間を読む」「誰かが暗示していることを汲み取る」など、かなり苦労して翻訳しようとするのだが、結局英訳できずに、「直接言い換える言葉はありません」とサジを投げたことだ。忖度は英語に訳せないというのだ。いったいなぜ訳せないのか?
 忖度とは「他人の気持ちを推察する」ことであって、世界中どこにでもあるという意見もある。しかし、そうではない。これは「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して、行動を決定する」という意味であって、日本人だったら誰でもピンとくるはずだ。じつはこれが英訳できないのは、海外とくに西欧では、忖度という概念がありえないからである。
 例えば、2011年の東日本大震災の際に海外のメディアから絶賛されたのは、海外だったら起りうる略奪や暴動もなく、被災者が避難所で冷静に行動していたことである。海外からやってきた外国人が、道端に無造作に設置された日本の自動販売機に、一様に驚くのも同じである。海外であれば、警察の目の届かない道端の自販は間違いなく壊され、おカネが奪われることになる。日本は、圧倒的に治安がよく安全な国なのである。
 日本では、災害時などに警察が活動不能となり「法のルール」が機能を停止しても、ふだんから様々な「世間のルール」に縛られているために、それが略奪や暴動の抑止力となっている。ところが海外では、この「世間のルール」が存在しないために、「法のルール」が機能しなくなれば、ただちに略奪や暴動などの犯罪行為に結びつきやすい。日本では「世間」があるために、「法のルール」が発動する前に、犯罪行為が抑止されるのだ。
 日本の会社や官庁などの組織体も、その実体は「世間」であるために、様々な「世間のルール」で縛られている。命令や指示といった「法のルール」は余程のことがないと発動されず、つねに「世間のルール」が優先される。忖度が英訳できないのは、これが「世間のルール」に属する言葉であり、西欧には「世間」が存在しないからである。
 忖度は海外でも注目された。英フィナンシャル・タイムズは、忖度を「与えられていない命令を先取りし、穏便に従うことを指す」(4月29日電子版)と定義している。だが、これが誤解だと思うのは、忖度の前提に与えられるべき命令があり、それを「先取り」することが忖度だと捉えている点である。つまり、忖度の前提に「法のルール」がある。
 これに対して日本の組織体では、「世間のルール」が優先され、「法のルール」はタテマエにすぎないから、そもそも命令や指示などなくとも忖度がありうる。命令が忖度の前提にあるとは言えないのだ。おそらく外紙の記者には、西欧にない忖度という「世間のルール」が、まるっきり理解不能だったのではないかと思う。
 もともと日本の「世間のルール」の下では、西欧流の「個人」が存在しないために、過度にお互いの心中を「察する」ことを要求される。これを私は「共感過剰シンドローム」と呼んでいるが、ここから、日本に独特の「空気読め」という強い同調圧力が生まれる。
 そうなると会社や官庁では、かりにコンプライアンスに反するようなことに抵抗しようとしても、「法令遵守もいいが、もっと大人になれよ」などと言われ、暗に圧力をかけられる。周囲の空気を読み、「上の意向」を察し、忖度することを求められることになる。
 忖度は、日本の「美しい伝統」であって、組織内の葛藤や対立が顕在化しないように、人間関係を円滑にするメリットがあるとの意見もある。だが、私はそうは思わない。命令や指示なしに忖度が要求されることで、責任の所在を限りなく曖昧にし、組織内の不正を許してしまうからである。だから、大阪府の松井一郎知事の言うような、「いい忖度」「悪い忖度」の区別などありえない。忖度なんて、なくなったほうがいいに決まっているからだ。











posted by satonaoki at 08:25| NEWS

2017年09月02日

9月20日『目くじら社会の人間関係』(講談社+α新書)が出ます。

 2017年9月20日に、『目くじら社会の人間関係』(講談社+α新書)が刊行されます。
 
 日本では、1990年代末の「後期近代」への突入によって、A・ギデンズのいう「再埋め込み」の現象が、「世間」の復活・強化としてあらわれ、その結果、ネットの炎上に代表されるように、だれもが目くじらを立てる「目くじら社会」が生まれたことを論じたものです。
 
 本書は、現在不定期連載中の北海道新聞「各自核論」に掲載された文章を、大幅に加筆・再構成したものです。以下のアマゾンのサイトで、予約可能です。
https://www.amazon.co.jp/%E7%9B%AE%E3%81%8F%E3%81%98%E3%82%89%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%A2%E4%BF%82-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4062915030/ref=sr_1_2/355-3064921-1753663?s=books&ie=UTF8&qid=1504305519&sr=1-2

 なお、「目次」は次の通りです。
第1章 日本だけに存在する「世間」とは何か
第2章 拡散するバッシングの背景
第3章 猛威をふるう「空気読め」の論理
第4章 実は不平等な日本社会
第5章 アイドルとヤクザの権利
第6章 なぜ日本に自殺者が多いのか

 以下、アマゾンの本の内容紹介を引用します。

 ここのところ、訳の分からないバッシングが止まらない。
2016年4月の熊本地震のときは、ネット上で「不謹慎刈り」と呼ばれる一連のバッシングが起きた。タレントの紗栄子さんが義援金を寄付したことをインスタグラムで公表したところ、それがネットで批判された。寄付したことが批判されるなど、海外だったら考えられない。
このように近年、インターネットが普及した日本では、誰しもネットに容易にアクセスできるようになり、「一億総目くじら社会」になっている。いったいなぜ、こうなるのか?
それは、日本ではどんなところでも、津々浦々にわたって「世間」が支配しているからである。「世間」のルールに反するような行為は、仮にそれが正しいことであっても批判を受け、バッシングされ、ブログが炎上することになる。
この「世間」は、外国には存在しない日本独特のもの――「1億総目くじら社会」を軽々と生き抜くヒントを!

posted by satonaoki at 08:40| NEWS