2017年07月09日

「北海道新聞」(2017年7月1日)に「『忖度』と世間」が掲載されました。

 2017年7月1日付「北海道新聞」の「各自核論」のコーナーに、「『忖度』と世間−同調圧力が生む無責任−」が掲載されました。
 内容は以下の通りです。

  「忖度」と世間−同調圧力が生む無責任−
                                             佐藤直樹

 森友学園・加計学園問題に端を発し、にわかに脚光を浴びることになった「忖度」という言葉。 3月23日に森友の籠池泰典前理事長は、外国特派員協会主催の会見で、国有地売却をめぐるニューヨーク・タイムズの記者の質問に答えて、「(周囲が)安倍首相または安倍首相夫人の意志を忖度して動いたのではないかと思っています」と語っている。
 この時に記者とのやり取りの場で、面白いことが起きた。通訳がこの忖度を「推測する」「行間を読む」「誰かが暗示していることを汲み取る」など、かなり苦労して訳そうとするのだが、結局英訳できずに「直接言い換える言葉はありません」と諦めたことだ。
 いったいなぜ訳せないのか? 忖度を「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して、行動を決定する」と言えば、日本人だったら誰でもピンとくるはずだ。じつはこれが訳せないのは、海外とくに西欧では、忖度という発想や行動がそもそもありえないからである。
 例えば、2011年の東日本大震災のさいに海外のメディアから絶賛されたのは、海外だったら起りうる略奪や暴動もなく、被災者が避難所で冷静に行動していたことだ。日本では、警察が活動できなくなり「法のルール」が機能を停止しても、ふだんから細かな「世間のルール」に縛られているために、それが略奪や暴動の抑止力となっているのだ。
 ところが海外では、この「世間のルール」が存在しないために、「法のルール」が機能しなくなる災害などの非常時になれば、ただちに略奪や暴動に結びつきやすい。じつは「世間」は日本にしかないために、その犯罪抑止力が海外から驚きの目で見られたのだ。
 日本の会社や役所などの組織体も、その実体は「世間」であるために、細かな「世間のルール」に縛られている。命令や指示といった「法のルール」はよほどのことがないと発動されず、つねに「世間のルール」が優先される。忖度が英訳できないのは、それが「世間のルール」に属する言葉であり、西欧には「世間」が存在しないからである。
 ちなみに英フィナンシャル・タイムズは、忖度を「与えられていない命令を先取りし、穏便に従うことを指す」(4月29日電子版)と定義している。だが、これが誤解だと思うのは、まだ与えられていないにせよ忖度の前提に命令があり、それを「先取り」するのが忖度だとみなされている点である。つまり、忖度の前提に「法のルール」がある。
 しかし日本の組織体では、「法のルール」はタテマエにすぎないから、そもそも命令や指示などなくとも忖度がありうる。命令が忖度の前提とは言えないのだ。海外紙の記者には、西欧にない忖度という「世間のルール」が、まるで理解不能だったのだと思う。
 この「世間のルール」の一つに、「世間」には西欧流の「個人」が存在しないために、自分と他人との境界が明確ではなく、お互いに心中を「察する」ことを要求されるというものがある。ここから、日本独特の「空気読め」という同調圧力が生まれる。
 そのため会社や役所のなかでは、かりにコンプライアンスに反するようなことに抵抗しようとしても、「空気読めないの? もっと大人になれよ」などと言われ、暗に圧力をかけられる。周囲の空気を読み、「上の意向」を察し、忖度することが強く求められる。
 確かに忖度は、組織内の対立を顕在化させずに、人間関係を円滑にするメリットはあるかもしれない。だが私が危惧するのは、命令なしに忖度が要求されることで、責任の所在を徹底的に曖昧にしてしまうことである。忖度の積み重ねこそが、誰も責任をとらない日本の組織体の「無責任システム」を再生産してきたのだ。

 さとうなおき 1951年宮城県生まれの現代評論家。専門は世間学、現代評論、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など多数。近く「目くじら社会の人間関係」を刊行。

posted by satonaoki at 08:20| NEWS

2017年06月12日

片田珠美『「正義」がゆがめられる時代』の書評が「北海道新聞」(2017年6月11日)掲載されました。

 「北海道新聞」(2017年6月11日)「本の森」コーナーに、片田珠美さんの『「正義」がゆがめられる時代』(NHK出版新書)の書評を書きました。
 昨年、19人の障害者を殺害した「津久井やまゆり園事件」について、その社会的背景を考察したもので、「世間」論と重なる部分があり、たいへん興味深い内容の本でした。
 書評は以下で閲覧できます。
 http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/books/2-0114627.html?page=2017-06-11

 内容は以下の通りです。
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                                評 佐藤直樹(九州工業大名誉教授)
   「戦時」暗示する障害者大量殺人

 19人の障害者が殺害された昨年の「津久井やまゆり園」事件。この戦後最悪の大量殺人事件のもつ底知れぬ不気味さを、社会的背景から鮮やかに解析してみせたのが本書である。
 なぜ植松聖被告は、「障害者が安楽死できる世界を」という、ゆがんだ「正義」を振りかざすようになったのか?
 まず「怒り…ルサンチマン(怨恨《えんこん》)が渦巻く社会」。いまや誰もがイライラしており、ちょっとしたことで目くじらを立てるようになった。過剰な「被害者意識」をもち、それが「懲罰欲求」へと短絡する。その結果が、相次ぐ土下座の強要や、生活保護受給者や透析患者など社会的弱者へのバッシングの頻発である。事件の背後には、こうしたイヤな空気の広がりがあった。
 つぎに「コストパフォーマンス重視の社会」。特にグローバリズムが席巻し、社会的格差が拡大し始めた1990年代後半以降、日本では「役に立つか、立たないか」のコスパで物事を考えるようになった。この「コスパ至上主義への究極の復讐(ふくしゅう)」として、障害者のような「役に立たない」者の抹殺という「正義」の実践があったという。
 さらに「“普通”から脱落すると敗者復活が難しい社会」。事件直前に被告は、失職と措置入院を経験し、“普通”から脱落したと感じ徹底的に追いつめられていた。その背景には格差の固定化があった。もともと日本は、”普通”であることに異様にこだわる社会であり、私たちはそれに強迫されてきた。
 深刻なのは、近年「平等幻想」が崩壊し「世襲格差社会」が成立することで、社会のなかに、閉塞(へいそく)感や絶望感やルサンチマンが蔓延(まんえん)していることだ。
 じつは、戦前で最悪の大量殺人事件「津山三十人殺し」がおきたのは、すでに<戦時>といえる1938年であった。「やまゆり園」事件がもつ不気味さは、日本がいま<戦時>に突入していることを暗示しているのではないか。本書はその意味で、社会に対して鋭い警鐘を鳴らしているように私には思える。

posted by satonaoki at 19:50| NEWS

2017年06月11日

「BBCニュース」の「我が子のために謝罪する日本の親たち」という記事にコメントが掲載されています。

 2016年12月31日付「BBCニュース」で、「我が子のために謝罪する日本の親たち」(The Japanese parents who apologise for their children)と題された記事の中で、私のコメントが掲載されています。
 執筆者は岡ゆづはさん。昨年、電話インタビューを受けたもので、すでに半年前に記事になっていたようなのですが、最近まで気づきませんでした。
 海外からみれば、日本の親が、不祥事をおこした子どものために「世間」にたいして謝罪するのは、きわめて不可解な事柄です。こうなるのは、私に言わせれば答えは簡単で、海外には「世間」がないために、基本的には「世間」に謝罪する必要がないからです。
記事では、日本では江戸時代から続く縁座(犯罪者の家族にまで処罰が及ぶ)という責任のとり方が、現在でも「世間」にたいして責任を取る、というかたちで残っていること、また、西欧諸国では子どもを個人(individual)として考えるが、日本の親は自分の子どもを所有物のように捉え、子どもの不始末は自分の責任であると考えるという私のコメントが掲載されています。

 記事は、以下でご覧になれます(ただし英語です)。
 http://www.bbc.com/news/world-asia-37480934

 なお、記事を書いた岡さんのホームページでも読めます。
 https://yuzuhaoka.wordpress.com/2017/01/07/the-japanese-parents-who-apologise-for-their-children/
 
posted by satonaoki at 08:20| NEWS