2017年06月09日

「もう『忖度』なんていらない」が「イミダス」の「時事オピニオン」に掲載されました。

 「もう『忖度』なんていらない−『世間』から考える日本の組織論」という文章が、ネットの「イミダス」というサイトの「時事オピニオン」というコーナーに掲載されました。
 「忖度」を世間学から解析したもので、これが「世間のルール」に属する概念であるがゆえに、「世間」が存在しない海外ではありえないことを論じました。

 以下からアクセスできます。
 http://imidas.jp/opinion/F-40-146-17-06-G576.html

 内容は以下の通りです。


 
   もう「忖度」なんていらない−「世間」から考える日本の組織論−

                                             佐藤直樹

 森友学園問題により、一気に広まった「忖度(そんたく)」という言葉。この言葉はどうして英訳不能なのか。そこには日本人の行動様式に深く根を下ろした「世間」という価値観があった。その無言の圧力が、いかに日本の組織体を支配しているのか。「世間学」の第一人者が解き明かす。

  ● 英語に訳せない忖度という言葉

 いま一匹の妖怪が、日本の会社、官庁などあらゆる組織体を徘徊している。「忖度」という名の妖怪である。森友学園への国有地払い下げ問題に端を発し、にわかに脚光を浴びることになったこの言葉は、早くも今年の流行語大賞の有力候補という下馬評もあるらしい。
 森友の籠池泰典前理事長は、2017年3月23日に行われた日本外国特派員協会主催の記者会見で、「安倍晋三氏や昭恵夫人の直接の口利きがあったのか」というニューヨーク・タイムズ紙の記者の問いに、「(周囲が)安倍首相または夫人の意思を忖度して動いたのではないかと思っています」と答えている。
 面白いのは、この忖度を通訳が、「推測する」「行間を読む」「誰かが暗示していることを汲み取る」などいろいろ英訳しようとするのだが、結局翻訳できずに「直接言い換える言葉はありません」とコメントしたことだ。
 確かに忖度は普段聞き慣れない言葉ではあるが、「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して、自分の行動を決定する」と言えば、日本人だったら誰でも思い当たる節があるはずだ。思うに、忖度が英語に翻訳できないのは当然で、海外とくに西欧社会では、忖度という概念や行為がそもそもありえないからである。

  ● 「世間のルール」に縛られる日本人
 
 なぜ、そう言えるのか? 私に言わせれば答えは簡単で、それは海外にはない「世間」が、日本全土を津々浦々にわたって支配し、日本人はこの「世間のルール」にがんじがらめに縛られているからである。
 例えば2011年の東日本大震災の際に、日本が外国のメディアから絶賛されたのは、海外だったら当然起こりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所で極めて整然と行動していたことだ。この海外からの意外な反応に、逆に驚いた人も多かったと思う。
 海外で震災のような非常時のときに略奪や暴動が起こりやすいのは、警察や軍隊などの活動が停止し、「法のルール」が機能しなくなったときに、他に違法行為を抑止するルールが存在しないからである。
 ところが日本では、「法のルール」が崩壊しても、日常的に「世間のルール」に縛られているために、それが大きな抑止力になって、略奪や暴動になることはまずない。つまり日本人の生活世界を支配するルールは、「法のルール」と「世間のルール」の二重構造になっていて、「法のルール」はよほどのことがないと発動されず、「世間のルール」がつねに優先的に作動している。
 日本の会社や官庁といった組織体もまた「世間」であるために、「法のルール」より「世間のルール」が優先される。忖度が英語に訳せないのは、この言葉が「世間のルール」に属する概念であり、海外とくに西欧社会では、「法のルール」はあるが、この「世間のルール」が存在しないからである。

  ● タテマエとホンネという奇妙な二重構造

 では、このような二重構造が日本で生まれたのは、いったいなぜか?
 日本は明治時代の1877年ごろに、西欧からsocietyという人的関係を示す言葉を輸入したが、江戸時代にはそうした概念がなかったために、「社会」という言葉を新たに造語した。しかしその後140年ほど経って、語の本来の意味でのこのsocietyとしての「社会」が、日本に定着したかと言えば、たぶん今でもない。
 その代わりに日本に連綿と存在し続けてきたのは、万葉以来一千年以上の伝統がある「世間」という人的関係である。この「世間」には、それを遵守しなければ「村八分」となるような細かな「世間のルール」があり、日本人は「世間を離れたら生きてゆけない」と思っているがゆえに、律儀にこれを守っている。
 さらに明治時代の近代化=西欧化の一環として、近代法としての「法のルール」が新たに日本に輸入された。問題なのは、これが「社会」に属する概念であるために、「社会」が存在しない日本では、人々の間になかなか定着しなかったことである。それゆえ、「法のルール」はあくまでもタテマエであり、ホンネのところでは「世間のルール」が機能するという、奇妙な二重構造が生まれたのである。
 この二重構造が、あらゆる日本の組織体を支配している。例えば証券取引等監視委員会への内部通報をきっかけにして、15年4月に発覚した東芝による利益水増しなどの粉飾決算の問題もそうだが、日本の会社でコンプライアンス(法令遵守)がうまく機能しないのは、「法のルール」がよほどのことがないと発動されず、日常的に忖度などの「世間のルール」が支配する、という状況になっているからである。

  ● 命令などなくとも、忖度がありうる

 ところで興味深いことに、英フィナンシャル・タイムズ紙(電子版)は、この森友問題と忖度をめぐる記事の中で、忖度を「与えられていない命令を先取りし、穏便に従うことを指す」(日経電子版2017年3月31日付「[FT]Sontakuがつなぐ日本のスキャンダル」)と定義している。
 しかし私は、この定義はあくまでも西欧人的な見方であって、正確ではないと思う。なぜなら、ここでいう「命令」とはあくまでも「法のルール」に属する言葉で、「世間のルール」が優先される日本では、そもそも命令などなくとも、忖度がありうるからだ。
 つまり忖度は、命令を前提としていない。けれどもこの記事では、たとえまだ与えられていなくとも、命令があることが前提とされ、それを「先取り」するのが忖度だとみなされている。これは些細な違いのように見えるが、じつは決定的な違いである。
 よく「悪い忖度」の例として、ナチスのユダヤ人虐殺において、それを官僚として忠実に遂行したアドルフ・アイヒマンが挙げられる。
 確かにヒトラーはユダヤ人虐殺の命令をすべて口頭で行い、文書は残されていないらしい。しかし指揮命令系統があやふやで、ユダヤ人虐殺が忖度によって行われたかといえば、そうではないだろう。
 この点では、ユダヤ系ドイツ人で、ナチスの迫害を逃れて亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントによって「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と指摘されたアイヒマン自身も、イスラエルの法廷で、自分はしかたなく上司の命令に従っただけだと弁明している。基本的にはナチスは、命令という「法のルール」の原則のもとに行動していたのであって、そこに忖度が生まれる余地はない。原理的に言って、西欧には「社会」はあるが、「世間」は存在しないからである。
 フィナンシャル・タイムズ紙のこの記事は、日本でも西欧と同様に、「法のルール」の原則が貫徹していることを前提に書かれている。だが、たぶんそれは大きな誤解であって、日本の組織体では「法のルール」はタテマエに過ぎない。忖度を含めた「世間のルール」が、外紙の記者にとっては理解不能だったのだと思う。

  ● 「いい忖度」「悪い忖度」なんてない

 この日本の「世間のルール」の一つに、「共通の時間意識」というのがある。これは、「オレとお前は同じ時間を生きているんだぜ」というルールである。
 すなわち「世間」の中では、「個々の時間」を生きる西欧流の「個人」が存在しないために、自己と他者との境界が曖昧で、お互いに心中を「察する」ことを要求される。また「同じ時間」を生きていない異質な人間がいると、これを排除しようとする集団力学が働く。そこから、日本に独特の「空気を読め」という同調圧力が生まれる。
 そうなると会社などの組織体では、「察するに、上の意向はこうだ」とか、「法令遵守もいいが、もっと大人になれよ」とか、「空気読めないの? ハブられるよ」などといった言葉が飛び交うことになる。仮にコンプライアンスに反するようなことであっても、周囲の空気を読み、「上の意向」を察し、忖度することを強いられることになる。
 確かに忖度することによって、組織内での葛藤や対立を表面化させず、人間関係を円滑にするというメリットはあるかもしれない。しかし、ここで私が危惧するのは、空気を読み、忖度することによって、責任の所在がどこかに吹っ飛んでしまうことだ。
 例えば、18年度から使用される小学校の道徳の教科書についての検定過程において、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶ題材が、文部科学省の検定意見によって「パン屋」から「和菓子屋」に修正されたことが報じられた(17年3月25日付朝刊各紙)。なぜ「和菓子屋」が良くて、「パン屋」がダメなのか。戦時中、外来語を「敵性語」として排除したことを思い出すような話である。
 文科省は、「政権の意向」を忖度した可能性はある。しかし、「和菓子屋」への修正を出版社に具体的に指示したわけではない。結局これは、出版社が検定意見の中に「上の意向」を察し、空気を読み、忖度した結果だということになる。とすれば、この「和菓子屋」への修正は、いったいどこに責任があるのか?
 たぶん文科省は、政権の誰からも命令や指示を受けていないし、修正はあくまでも出版社の判断だと言うだろう。また出版社は、文科省の検定意見に従っただけだと言うだろう。そうすると、この奇妙な修正がなぜ起きたのか、責任の追及が極めて困難になる。この忖度の積み重ねこそが、不正があっても最終的に誰も責任を取らなくともよいという、日本の組織体における「無責任システム」を再生産してきたのだ。
 このように、忖度という言葉は責任の所在を徹底的に曖昧にする。だから、大阪府の松井一郎知事が言うような「いい忖度」「悪い忖度」などありえない。忖度なんて、ないほうがいいに決まっているからだ。



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2017年05月14日

日本犯罪社会学会編『第43回大会報告要旨集』に報告要旨が出ました(2017年3月)。

2016年10月29日に、神戸市・甲南大学で開催された日本犯罪社会学会第43回大会のトークセッションで、「少年法適用年齢引下げ」というテーマで報告しました。報告者は、他に九州大学の武内謙治さん、筑波大学の土井隆義さんです。
その内容が、日本犯罪社会学会編『第43回大会報告要旨集』に掲載されています。私は世間論から少年法改正問題について、ギデンズのいう共同体=世間への<再埋め込み>という視点から報告したのですが、フロアからの発言を含めて、きわめてスリリングなトークセッションになりました。
以下のサイトから討論を含めた報告要旨全文がダウンロードできます。
http://hansha.daishodai.ac.jp/meeting_reports/index.html

なお、私の報告部分は以下の通りです。

●佐藤報告「少年法適用年齢引下げ−「世間」への<再埋め込み>をめぐって−」要旨

(1)「子ども期」の登場と保護主義の成立
ヨーロッパ中世においては、幼児期をすぎると子どもは7/8 歳で「小さな大人」(P・アリエス)と
みなされた。それは文化の伝承が文字によってではなく、声によっておこなわれたためである。これを
W・J・オングは「一次的な声の文化」と呼ぶ。
ところが12 世紀以降徐々に、文化の伝承が文字でなされるようになる(「文字の文化」)。17 世紀末に
なると、公教育の登場による「学校化」(アリエス)がはじまり、子どもへの「関心のまなざし」が強ま
って、歴史上初めて「子ども期」が登場する。
子ども期の成立を背景として、19 世紀には、子どもの刑罰軽減が刑法に詳細に規定されるようになる。
この自由主義(夜警国家)段階の刑法において子どもは、「自由意思で犯罪をおかした小さな大人」とみ
なされ、「犯罪−責任−処罰」という大人と同様の責任主義が適用された。
大きな転換は、1899 年イリノイ少年裁判所法の成立にはじまる。児童救済運動の高まりなどによって、
大人の刑事手続と分離した少年の特別な扱いが必要とされ、子どもは「環境の犠牲者としての子ども」
とみなされるようになる。帝国主義(福祉国家)段階における「評価−予防−処遇」という保護主義の
誕生である。これは、福祉国家的な刑事政策の刑事司法への介入という意味で、「処罰福祉主義」(D・
ガーランド)の成立といえる。

(2)子どもの「小さな大人」化と厳罰化
日本では1922 年に「処罰福祉主義」に基づく旧少年法が成立し、戦後の少年法に引き継がれる。だが
1980 年代以降、@高度資本主義=高度消費社会の出現による商品経済の子どもへの浸透と、A電話・テ
レビ・パソコンなどの電子メディアの普及によって、「二次的な声の文化」が復活し、あたかも中世のよ
うな子どもの「小さな大人」化が進んだ。
大きな変化は、90 年代末以降のグローバル化=新自由主義の台頭によって、自己責任論が強まり、子
どもは再び「自由意思で犯罪をおかした小さな大人」とみなされるようになったことである。97 年「神戸
連続児童殺傷事件」が厳罰化のきっかけとなり、99年「光市母子殺害事件」の死刑判決に象徴されるよ
うに、「処罰福祉主義」が後退してゆく。

(3)後期近代における「世間」への<再埋め込み>
「世間」とは何か。日本では近代化=西欧化の過程で、individual やsociety の形成が十分になされ
ず伝統的「世間」が連綿とのこった。「世間」とは、@「贈与・互酬の関係」A「身分制」B「共通の時
間意識」C「呪術性」のルールをもつ人的関係である。近代化=<脱埋め込み>(A・ギデンズ)によ
って共同体な紐帯や掟は解体していったが、「世間」という幻想の共同性が負荷的・抑圧的なものとして
強固にのこったのである。
行動の準拠点としての「みんなどうしているのだろうか」と考えることが、「世間」という幻想の共同
性が作動していることを表している。後期近代への突入による、1998〜03 年の「伝統離脱」から「伝統
志向」への保守化の動き(NHK放送文化研究所)は、西欧社会では人種・民族・宗教への<再埋め込
み>の現象として現われたものが、日本では伝統的「世間」への<再埋め込み>の現象として現われて
いることを示している。
また、若者の間で保守化が進み、友だち同士の「プレゼント」(「世間」のルール@)や「あの世、パワ
ースポットへの関心」(C)や「宿命主義」(A)といった現象(土井隆義)は、<再埋め込み>を背景
として、「小さな大人」化によって子どもの生活世界で「プチ世間」が形成されていることを示している。

(4)少年法適用年齢引下げをどう考えるか
現在急いで少年法適用年齢を引下げる理由は見当たらない。ただし犯罪率の減少が少年司法の運用の
成功を意味するかといえば、根底にあるのは、日本は先進国中犯罪率は最も低く/自殺率は最も高いと
いう、「世間」の犯罪抑止力と自殺誘発性の高さである。
さらに「幼児」「子ども/大人期」「老人期」の成立(N・ポストマン)によって、成熟した「小さな
大人」と、未熟な「大きな子ども」の混在する状況が生まれている。とすれば、むしろ成人年齢の引上
げが必要な時代といえるかもしれない。
posted by satonaoki at 08:42| NEWS

2017年02月05日

「北海道新聞」(2017年2月4日)に「夫婦の姓と『世間』」が載りました。

 「北海道新聞」(2017年2月4日)の「各自核論」のコーナーに、「夫婦の姓と『世間』」という評論が掲載されました。昨年10月に東京地裁が「職場ではすべからく戸籍名を使え」というとてつもなくヘンな判決を出したことについて、「『世間』の無意識における女性差別」という視点から考察したものです。
 まあ、ぶっちゃけていえば、裁判所もボーイズ・クラブなんですね、ということです。
 内容は以下の通りです。


 ● 夫婦の姓と「世間」−無意識の中に女性差別−
                         
 とにかくヘンとしかいいようのない判決だ。日大第三中学・高校(東京)の30代の女性教諭が、職場で結婚後に戸籍姓を強制されたとして、旧姓使用と慰謝料を求める訴訟をおこしたが、東京地裁は昨年10月、請求を棄却したのである。現在、東京高裁で控訴審が行われている。
 地裁判決は、職場において戸籍姓の使用を求めることに合理性、必要性が認められるし、通称としての旧姓使用は、社会に根付いているとは認められないとして、学校側に違法行為はないといっている。つまり、職場ではすべからく戸籍名を使えということだ。
 では夫婦はそもそも、「同姓」でなければいけないのか。じつはこの問題については、15年12月に最高裁大法廷が、夫婦同姓を定めた民法の規定は憲法に違反しないとしている。だが面白いことにこの判決では、姓を改める者の不利益について、「妻となる女性が不利益を受ける場合が多いと推察できるが、姓の通称使用が広まることにより一定程度は緩和されうる」という内容の文言をつけ加えている。
 最高裁がこうした言い訳をしなけれはならなかったのは、社会に通称使用が広がっているという現実を無視できなかったからであろう。そして、東京地裁の判決にしたがえば通称使用は認められず、女性の不利益は緩和されないわけだから、論理的にいってこの判決は、最高裁判決のこの部分に楯突いていることになる。
 通称使用の広がりという点では、じつはこの日大第三中学・高校の周辺の学校でも、ほとんどが日常業務での旧姓使用を認めているという。これを認めたところで、なにか混乱がおきるとも思えない。にもかかわらず、これほどまで頑なに裁判所が旧姓使用を認めたがらないのは、いったいなぜなのか。
 海外では「同姓」「別姓」「結合姓」を選択できるのがほとんどで、日本のように「同姓」のみを法的に強制する国は存在しない。日本は世界的には、完全に孤立したガラパゴスなのである。しかも不思議なことに、結婚時に夫の姓になるのがじつに96%で、大多数の女性の姓が結婚後に変わる。
 そのため旧姓使用の要求は、もっぱら圧倒的な不利益を受ける女性の側の問題となっている。私の周りをみても、とくに女性研究者の場合に、姓が変わると同一人物と認識されなくなる可能性があり、キャリアが切れて、研究業績の評価に影響しかねない。
 そうなるのは、日本の「世間」では同調圧力がきわめてつよく、夫婦の姓を選択するときに、「みんなはどうしているだろうか」という基準で考えるからである。「出る杭は打たれる」ために、大多数が夫の姓になる。この構造は、ほとんど意識されることがない。いわば「世間」の無意識の中に、強固な性差別が刷り込まれているのだ。
 例えば、昨年10月に「世界経済フォーラム」(WEF)が発表した男女の平等度を示す「ジェンダー・ギャップ指数」では、日本は調査対象の一四四カ国中なんと一一一位である。これは06年に調査が始まって以来、最悪の数字であるという。しかしこの数字を示されても、おそらくほとんどの人が実感をもてないのではないか。
 実感できないのは、差別が「世間」の無意識となっているからである。日本では法的な「家制度」は戦後なくなったが、依然として結婚は個人のものではなく、「嫁をもらう」「夫の家に嫁ぐ」というように、女性差別的な「いえ」の考えが執拗に残っている。
 こうした差別的な空気が「世間」を支配しているために、裁判所もそれと無縁ではありえない。旧姓使用を頑なに認めないのは、裁判官も「世間」の一員だからである。いま必要なことは、差別が刷り込まれている「世間」の無意識を、徹底的に意識化することである。(著者紹介)さとうなおき 51年宮城県生まれ。専門は世間学、刑事法学。「日本世間学会」幹事。著書に「犯罪の世間学」など。


posted by satonaoki at 08:22| NEWS