2021年08月03日

「ダイヤモンドオンライン」(2021年8月2日公開)に「日本で欧米より 『ワクチンハラスメント』が起きやすい2つの理由」が掲載されました。

2021年8月2日「ダイヤモンドオンライン」に「日本で欧米より『ワクチンハラスメント』が起きやすい2つの理由」が掲載されました。

以下でご覧になれます。
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%8C%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%80%8D%E3%81%8C%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%842%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1/ar-AAMOTFN

内容は以下の通りです。
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日本で欧米より「ワクチンハラスメント」が起きやすい2つの理由
佐藤直樹 2021/08/02 06:00

 新型コロナウイルス感染抑制の頼みの綱になった感のあるワクチン接種が進捗(しんちょく)している。
 これまでも、新型コロナの感染者が職場で「退職勧告」や「出社停止」や「異動命令」を受けるなどの、異常としかいいようがない差別や人権侵害の事例が起きていた。
 ワクチンの集団接種が拡がるにつれて、今度は職場や学校でワクチンハラスメントの頻発だ。やっぱりね、という思いが強い。

接種拒否したら実習受けられず 協力要請反対し病院長解任

 日弁連が「新型コロナウィルス・ワクチン予防接種に係わる人権・差別問題ホットライン」を2日間、開設したところ、全国からなんと208件ものハラスメントの相談が寄せられたそうだ。
 それらを少し拾い出してみると、看護学生のケースでは、「実習先で接種が望ましいとなり、学校で一斉に接種を強制されている。『拒否するなら実習ができない可能性があり、単位取得できない』と言われた」。
 医師では、「ワクチンの安全性に疑問があり、都道府県からの接種協力要請に反対したところ、医療法人理事長から病院長を解任された」。
 また介護施設職員からは、「職場から『ワクチン接種は義務的』『打ちたくないのであれば、ここでは働けない(事実上クビ)』と言われている」。
 医療関係者では、「職場にワクチンを『受ける』『受けない』にチェックする表が張り出されている(『受けない』にチェックできる空気ではない)」――といった声が寄せられた。
 いずれもハラスメントというより、退学や解任や解雇やプライバシー権の侵害など、違法行為が疑われるような深刻な問題が起きていることが分かる。
 ホットラインが開設されたのは5月だったが、その後、大企業や大学などでの職域接種が始まったなかでこうした問題はさらに増えている。

強い同調圧力が働く背景に 日本独特の「世間のルール」

 相談を担当した川上詩朗弁護士は、「接種はだれのためにあるのか。まずは自分の身を守るためにあるはずだが、『他人に感染させないために打て』という同調圧力が働いている」と指摘する。
 この同調圧力はいったいどこからくるのか?
 私はこの問題が厄介なのは、その根底に、現在の欧米には存在しない日本独特の「世間」があるからだと考えている。
 では「世間」とは何か。日本は先進国のなかでは、きわめて古い文物を残す唯一の国である。「世間」は人間関係のあり方を示すコトバだが、『万葉集』以来の1000年以上の古い歴史がある。
「世間」には、「法のルール」のように成文化はされていないが、たくさんの「世間のルール」があり、日本人は「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じているが故に、これをじつに生真面目に守っている。
 意外に思われるかもしれないが、「世間」のような人間関係は12世紀前後までヨーロッパにも存在した。だが、その後の都市化やキリスト教の浸透などによって「世間」は解体し、「法のルール」を構成原理とするsocietyが新たに生まれた。
 日本には1877年頃、このsocietyというコトバが輸入され「社会」と翻訳された。しかし、伝統的な「世間」が解体されずに残ったために、社会の構成原理である「法のルール」はタテマエとみなされ、「世間のルール」こそがホンネとして機能するという奇妙な二重構造に支配されることになった。

「人に迷惑をかけるな」が 欧米流「法のルール」を凌駕

 この「世間のルール」の一つに、「人に迷惑をかけるな」という呪文のようなコトバがある。
 日本人は、このルールがアタマに強固に刷り込まれているために、「人に迷惑をかける」行為が、なんら「法のルール」に反するものでなくとも、あたかも犯罪でもおかしたかのように極悪非道の行為と考える。
 つまり「ワクチンを打たない」ということは、国や会社や学校や同僚やご近所にとって、まさしく「人に迷惑をかける」行為とみなされる。実はこれが、ワクチン接種への強い同調圧力を生み出しているのだ。
 一方、社会の構成原理である「法のルール」の観点に立てば、予防接種法9条では「接種を受けるよう努めなければならない」という「努力義務」を課してはいるが、接種はあくまでも「任意」にすぎない。
 すなわち、接種するかしないかは完全に個人の自己決定に委ねられている。
 しかし、この「法のルール」はタテマエにすぎない。国や会社や学校がいかに「接種は任意ですよ」と注意喚起したとしても、「世間」が勝手に「人に迷惑をかけるな」という同調圧力を発揮して、「空気読めよな」と、人びとにワクチン接種を強制する。
 つまり、ホンネとしての「世間のルール」に基づいて醸成された空気は、「法のルール」を凌駕するような巨大なチカラを持っているのだ。
 ちなみに、「世間」の存在しないアメリカでは最近、テキサス州のヒューストン・メソジスト病院が、雇用条件として職員に新型コロナワクチン接種を義務づけた。
 接種しなかった116人の職員が、病院を相手取って義務づけは不当だとして訴訟を起こしたが、連邦地裁はこの訴えを退けたという。
 欧米では社会しか存在しないために、すべては「法のルール」に基づいて解決するしかなく、もっぱら紛争の決着をつけるのは裁判所である。しかし日本では、「世間のルール」が優先されるために、「法のルール」に訴えること自体が、「裁判沙汰」などと呼ばれ「世間」から非難されるところが、欧米とはまるで違う。

なんでも「人間平等主義」 「自分は自分、他人は他人」にならず

 ワクチン接種への同調圧力が生まれる理由がもう一つある。
「世間のルール」のうちで、これは中根千枝さんのコトバなのだが、「人間平等主義」というのがある。
 つまり、人間には本来才能や能力の差があるのに、日本人は「みんな平等」であると考え、それを認めないというものだ。まさに「出る杭(くい)は打たれる」のだ。
 そしてそこから日本独特のねたみ意識が生まれる。「人間平等主義」のためねたみ意識が強く、「自分は自分。他人は他人」とならず、ワクチン接種への同調圧力もこうした意識と関係があるといっていいだろう。
 例えば、日本独特のねたみ意識として分かりやすいのは、日本で宝くじの高額当選者がゼッタイに名前を明かされることがないことだ。
 明かせないのは明かした途端に、「なんであいつだけが」という「世間」からのひどいねたみの視線にさらされるからだ。
「人間平等主義」からいえば、隣の人間が高額の宝くじに当選することは「平等」ではないことになる。
 これがアメリカだと、高額当選者は堂々メディアの取材に応じ、実名・顔出しでインタビューに答えたりしている。
 アメリカの殺人率は、日本の15倍程度で圧倒的に治安が悪い。私などはホントに大丈夫かと思うが、これで問題ないのは、「世間」がないためにねたまれず、まわりも「よかったね」で終わりだからだ。
「自分は自分。他人は他人」という自他の区別が、はっきりとついているのだ。

日本人の「意地悪」 経済の長期低迷の要因にも

 この点で興味深いのは、大阪大学経済社会研究所の研究グループが、日米のグループでお金を出資して道路などの公共財を造るゲームをしてもらい、プレーヤー同士がどんな行動をとるかで損得が決まるという実験を行った結果である。
 それによれば、日本人は他人が利益を得ようとして自分が出し抜かれることを嫌い、ただ乗りを許してはならないと考えるため、アメリカ人と比べると根っから意地悪な人が多く、自分が損をしてまで他人の足を引っ張る、と結論づけている。
 これに対してアメリカ人は、「相手は相手。私は私」と考えるという。しかも、日本の社会ではみんなで仲良く協力してコトに当たっているようにみえるが、協力しないと後が怖いからそうするのだという。
 実はまさにこの「意地悪」が、昨今の日本経済の長期的低迷の大きな要因ではないかと、最近では話題になっている。
 経済発展のための新しい価値を生み出すためには、同質的な集団より、価値観の異なる多様性を持つ集団が必要だ。ところが「出る杭は打たれる」という足の引っ張り合いは、それを阻害することになるのだ。
 ワクチン接種への同調圧力が生まれるのも、「人間平等主義」のためねたみ意識が強く、「自分は自分。他人は他人」とならず、過度の足の引っ張り合いになるからだ。
 これから職域接種がさらに増え、自治体によるワクチンパスポートの交付も始まる。ワクチンを打たない人間への差別や人権侵害は、ますます深刻な問題になる可能性が高い。だが持病やアレルギーに限らず、打たない理由はいろいろあるはずだ。
 必要なのは、私たちがたくさんの「世間のルール」に縛られていることを自覚し、お互いの足の引っ張り合いをやめて、他者に豊かな想像力を働かせる態度だろう。

(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹)
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posted by satonaoki at 19:36| NEWS

2021年05月10日

「ダイヤモンドオンライン」(2021年5月10日公開)「国際的『男尊女卑国』日本、世界とズレる大きな理由」が掲載されました。

 「ダイヤモンドライン」(2021年5月10日公開)に「国際的『男尊女卑国』日本、世界とズレる大きな理由」が掲載されました。
 「世間」論から、156カ国中120位という日本のジェンダーギャップ指数の低さの理由を考えてみたものです。
 https://diamond.jp/articles/-/270380
 
 内容は以下の通りです。

 国際的「男尊女卑国」日本、世界とズレる大きな理由

 評論家・九州工業大名誉教授 佐藤直樹

 ●男女平等ランキング、日本は120位 ●経済分野117位、政治分野147位

3月に発表された世界経済フォーラムの「男女格差報告書(ジェンダー・ギャップ指数 ) 2021」で、日本はなんと156 カ国中 120位(65・6%)だった。
教育へのアクセスや政治家や閣僚の数、賃金など男女差を比べ、「100%」を「完全な男女平等」として達成度を指数化したものだが、これまでで二番目に悪い数字で、主要7カ国(G7)では最下位、全体でもはっきりいって下から数えたほうが早い。
 対象となった経済・教育・医療・政治の 4分野のうち、教育・医療分野はそうでもないのだが、目立って低いのは、経済分野の 117位と政治分野の 147位だ。とりわけ経済分野では、「労働力の男女比」は他国と比べて遜色ないのに、「管理的職業従事者の男女比」が139 位「専門・技術職の男女比」が 105位と、かなり低い。私も大学で働いていたが、職場で女性の管理職がきわめて少ないのは実感としてよく分かる。

●かなりの「女性差別の国」●実感している人男性は少ない

 というわけで、 2月に森喜朗オリンピック組織委員会元会長が辞任に追い込まれた、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「組織委にも女性はいるが、わきまえている」との女性蔑視発言をもちだすまでもなく、じつは国際的には、日本はれっきとした「男尊女卑の国」なのだ。
これはきわめて深刻に受け取るべき厳然たる事実なのだが、日本がかなりひどい女性差別の国だと自覚できる人は多くない。おそらく、とくに男性にはこのことをリアルに感じている人は、少ないのではないか。
日本が国際感覚とはとんでもないズレがあるのは、いったいなぜなのか?

●欧米にはない「世間」に●埋め込まれた「身分制のルール」

 答えは簡単で、それは海外にはない日本特有の人間関係である「世間」に、日本人ががんじがらめに縛られていることにある。
「世間」があるために差別が構造化されており、女性差別が隠蔽され、きわめて見えにくい構造になっているからだ。
 女性差別が見えにくい理由の一つは、「世間」に「身分制」があるためだ。日本は先進国のなかでは、きわめて伝統的なものを多く残している唯一の国だ。その代表が「世間」という人間関係だ。
「世間」は『万葉集』以来1000年以上の歴史があり、日本人は伝統的な「世間のルール」を律儀に守ってきた。なぜなら、「世間を離れては生きてゆけない」と信じており、ルールを守らないと「世間」から排除されると考えるからだ。
 そのルールのなかに「身分制のルール」がある。年上・年下、目上・目下、先輩・後輩、格上・格下、男性・女性などの上下の序列である。日本人はこの「身分制」にしばられており、そこに上下の序列があるために、これが差別の温床となっている。
 現在の欧米社会には、日本のような「世間」はない。この違いは言葉の問題を考えると分かりやすい。
英語では一人称の「I 」と二人称の「YOU 」は一種類しかない。つまり対話の相手が友だちだろうが大統領だろうが、タメ口でよい。ところが日本語では「I」 も「YOU 」も、「オレ、私、僕、あなた、お前、君・・・」など山のようにある。
日本語でこれほど一人称・二人称の使い分けが必要なのは、あらゆる場面でその都度、対話の相手との上下関係、つまり「身分」を考えて、言葉を選ばなければならないからだ。 英語圏には「世間」はないため、日本のような「身分制」が存在せず、人間関係は基本的に「法の下の平等」のもとにあるから、相手が誰であろうがタメ口でよい。
 「身分制のルール」は合理的な理由がない、いわば「謎ルール」なのだが、「世間」には後輩の先輩への絶対的服従など、この種の「謎ルール」がてんこ盛りにある。女性差別もその一つで、「世間」の「身分制のルール」のなかに構造的に埋め込まれている。
じつは森元組織員会会長の「わきまえている」発言が意味しているのは、まさに「女性は身分をわきまえろ」という「身分制のルール」のことに他ならない。
 ただしこの発言だって、「たかがあの程度のことで、なぜ辞める必要があったのか?」と思った人は、とくに男性に多いのではないか。
女性差別だという実感がまるでないのは、そもそも「世間」自体が「身分制」という差別構造をもち、女性差別がそのなかに見事に埋め込まれ隠蔽されるために、きわめて見えにくくなっているからだ。

●夫との間で「母子関係」まで●背負うことを求められる妻

 日本の「世間」で、女性差別が見えにくい理由がもう一つある。
たとえば、歌手で俳優でもある武田鉄矢さんは、3 月に「ワイドナショー」に出演したさいに、西洋に比べて日本が「男性優位社会って言われていますけど、そんな風に感じたことありません」と断定。夫婦関係を念頭に、「やっぱり日本で一番強いのは奥さんたちだと思いますよ」と発言している。
 どうだろうか。これを聞いて共感する男性は少なくないのではないか。
やっかいなのは、夫婦関係において「日本で一番強いのは奥さん」と思い込んでいる人間に、社会関係におけるジェンダーギャップを指摘しても、まるで実感をもてないのではないかということだ。
つまりここには、夫婦関係と社会関係において一種の「ねじれ」があり、夫婦関係においては、男性より女性のほうが一見「強い」ようにみえる。しかし、この「ねじれ」は表面的なものにすぎない。
たとえば昨年 6月、お笑い芸人の渡部建さんの不倫問題がおきたときに、妻で女優の佐々木希さんがインスタグラムで、「この度は、主人の無自覚な行動により多くの方々を不快な気持ちにさせてしまい、大変申し訳ございません」と、「世間」に謝罪したことは記憶に新しい。
 じつは、夫の不祥事を妻が「世間」に謝罪しなければならないのは日本特有の現象なのだが、「世間」が謝罪を要求するのは、夫にたいして妻は母親としての「監督責任」があると考えるからだ。
つまりここにある夫婦関係は、相互に独立した個人としての男女関係ではなく、非対称の依存関係としての「母子関係」である。
 この点で最近、心理学者の信田さよ子さんが、日本のDV加害者の男性の特徴について、面白いことを指摘している。
すなわち、北米の男性の場合、妻への嫉妬がDVの引き金になっている例が多いのに対して、日本では妻が他の男性に惹かれることなど考えもしない例が多いという。ようするに、「日本の男性は妻を女性としてではなく、『自分を分かってくれる存在=母』としてとらえている」ことがDVの根底にあるのではないか、というのだ。
 もちろん「母子関係」がすべて悪いわけではない。しかし夫婦の関係で「自分を分かってくれる存在」といった「母子関係」を要求される女性にとってみれば、それは強制であり抑圧でしかない。
夫婦関係において女性は男性より「強い」ように表面上みえるが、ここにあるのは、一方的に「母親の役割」を強制されるいびつな女性差別の構造なのだ。とくに男性にとって、この差別的構造はきわめて自覚しにくい。

●女性役員比率と業績に相関関係●見方や考え方の多様化で活性化

では、たとえば企業での男女差別や格差をなくしていくにはどうすればよいのか。
職場も一つの「世間」である以上、そこでも女性差別が構造化されている。この状況を変えるには、日本では差別が見えにくい構造があることをよく自覚し、すみやかにジェンダーギャップを埋める具体的な方策を講じる以外にない。
BCG(ボストン・コンサルティング・グループ)の報告書(2017年)によれば、日本企業における女性役員の割合は、ノルウェー36%、フランス30%、イギリス23%、アメリカ・ドイツ・オーストラリア19%などと比較して、わずか3 %と著しく低い。
興味深いことにこの報告では、東証一部上場 904社を調査し、「日本企業の女性役員比率と企業業績には相関関係が見られる」と結論づける。つまり女性役員を増やすことで企業業績が上がる。それは、「ものの見方や考え方が多様化することで、企業が活性化し、イノベーションが加速する」からだという。当然といえば当然の話だ。
 これは一つの例だが、政治のかかげる「女性活躍推進」がレッテル詐欺にならないためにも、女性の管理職を増やすなどの実効的な手立てを、躊躇することなく実施することが必要だ。



posted by satonaoki at 14:40| NEWS

2021年04月01日

「東京新聞」(2021年3月27日)に小林哲夫『平成・令和 学生たちの社会運動』の書評を書きました。

 「東京新聞」(2021年3月27日)の「読む人」のコーナーに、小林哲夫さんの『平成・令和 学生たちの社会運動』(光文社新書)の書評を書きました。
 
 期間限定で、以下でご覧になれます。
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/94114
 
 内容は以下の通りです。

 数年前にある大学教員は、「大通りをデモしたりするのは犯罪じゃないんですか」と学生にいわれて驚いたそうだ。私の経験でも、教室でデモは市民の権利ですと正しく指摘しても、学生諸君はキョトンとしている。だが著者は、どんな時代であっても社会と向き合っている学生はいる、その記録を残したいとの強い思いから本書を書いたという。
 記録の中心は、国会前占拠にいたる15年安保前後。ここ10年ほどの学生たちの社会運動だ。最も目立ったSEALDs以外にも、民青、直接行動、未来のための公共、エキタス、カウンター、9条の会、中核派・全学連、性暴力・性差別反対、環境問題、自由と生存など多彩な運動に関わった学生たちのほとんどが、大学名と共に実名で登場する。
 とりわけ、「孤独に思考し判断しよう」との斬新なメッセージを掲げたSEALDsの運動が残したものは、デモ参加のハードルを下げ、政権交代の野党共闘を構築し、「あなたはどうするんですか」という鋭い問いを突きつけたことであるという。
 ただし、その活動の中心はSNSの空間である。国際基督教大学がSEALDsの活動を担った学生を表彰したような例外はあるが、いまや多くの大学キャンパスでは、ビラ撒きも座り込みも集会もデモも、職員がすっ飛んできて妨害される。情けないことに大学は、憲法上の権利である「表現の自由」の圏外の空間になってしまったのだ。
 それに加えて深刻なのは、「国の政策に反対することが『空気を読まない』と見なされてしまう『空気』が蔓延していること」だ。私見では、この国の若者のあらゆる反抗や反乱は、「空気読めよ」という日本特有の「世間」の同調圧力によって無力化される。「世間」は変わらないと信じられているので、社会運動がなかなか育たない。
 この意味で本書はたんなる記録ではない。私たちは「あなたはどうするんですか」という問いを突きつけられているのだ。



posted by satonaoki at 20:56| NEWS