2021年11月20日

「東京新聞」(2021年11月20日)に杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の書評が掲載されました。

 2021年11月20日「東京新聞」の書評欄に、杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(集英社新書)の書評が掲載されました。
 内容は以下の通りです。

    男女間には「同意よりも異論を」
   
 もう耳にタコができているかもしれないが、日本のジェンダーギャップ指数はなんと156カ国中120位。だが、自戒をこめて言いたいが、大多数の男性はまるで実感がないのではないか。女性は自分が女性であることを日々意識させられるが、多数派の男性は自分が男性であることを、それほど強く意識しなくとも暮らしていけるからだ。
 著者は、いま#MeToo運動など時代の大波にさらされ、その居心地の悪さに、困惑し、戸惑っている、「迷える多数派の男たちのためのまっとうな教科書」が必要だという。それを実現した本書は、これまでのフェミニズムをめぐる様々な論争や、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『ズートピア』『ジョーカー』などの映画作品を素材に、男性たちがフェミニズムから何を学ぶべきかを、網羅的に整理し丁寧に解読する。
 論点は多岐にわたるが、現在とりわけ問題なのは、近年のグローバル化と多文化主義化によって、ジェンダー、人種・民族、障害、経済階級などの差別が交差し複合化したことで、男性の側で、自分も被害者であるとの剥奪感が強まったことだ。被害女性を「勝ち組の典型」とみなし殺害しようとした8月の「小田急線無差別刺傷事件」が象徴的だが、それが容易に女性への攻撃に転化し、アンチフェミニズム的な気分の拡大を招いている。
 ではどうすればよいのか。特筆すべきは、「一九六〇年代〜七〇年代のラディカルフェミニズムの原点(非対称な敵対性の場所)に立ち還るべきではないか」との提案だ。これは、男性と女性の間には圧倒的な非対称性が存在し、男性には加害者性の自覚が必要だということだ。
 求められているのは、#MeToo運動への訳知り顔の共感や賛同ではない。大事なのは、何よりもまず男性自身が男性問題を問い直してゆくこと。そして、男性と女性の間での、「同意ではなくむしろ異論を。対話ではなく論争を。友愛ではなく敵対を待ち望」む態度だという。いま自分の立ち位置に迷うマジョリティ男性に待望の一冊である。

〔もう一冊〕武田砂鉄『マチズモを削り取れ』(集英社)日本が、いかにとんでもない男尊女卑の国であるかがよーく分かる。

posted by satonaoki at 09:43| NEWS

2021年10月19日

「教職研修」(2021年11月号)に「日本社会に蔓延する『同調圧力』」が掲載されました。

月刊「教職研修」2021年11月号の「学校の『横並び文化』はこのままでよいのか?−『誰一人取り残さない教育』の実現に向けて」という特集のなかで、「日本社会に蔓延する『同調圧力』」が掲載されました。
 https://www.kyouiku-kaihatu.co.jp/bookstore/products/detail/102111
 
 内容は以下の通りです。

  〔ポイント〕
  同調圧力の根本にあるのは、日本
  特有の伝統的「世間」だ。学校も「世
  間」なので、「法のルール」はタテマ
  エにすぎず、「世間のルール」こそが
  ホンネ。いま必要なのは、合理的根
  拠のない「謎ルール」を整理し、廃止
  することだ。

 新型コロナ禍が図らずも露呈させたのは、海外ではありえない「自粛警察」の登場に象徴されるような、日本における同調圧力の異様な強さだ。同調圧力とは、「少数意見を持つ人、あるいは異論を唱える人に対して、暗黙のうちに周囲の多くの人と同じように行動するよう強制すること」と定義できる。
 実はこの同調圧力の根本にあるのは、「感染より世間の目が心配」と多くの人が語り、感染者や家族が「世間」への謝罪を強いられたように、日本特有の「世間」である。「世間」とは人間関係のあり方のことだが、英語に翻訳できない。society でもworld でも、community でもない。概念が存在しないということは、少なくともいま英語圏には存在しないということだ。

  では、「世間」とは
  いったい何か?

 「世間」は、『万葉集』の山上憶良の「貧窮問答歌」にも登場し、千年以上の歴史がある。おもしろいことにコトバの意味は、現在のものとまったく変わらない。極端にいえば、これだけスマホが発達し、コミュニケーション手段が電子化されているにもかかわらず、日本人の人間関係のあり方は、千年以上ほとんど変わっていない。
 「世間」はきわめて古い歴史をもつため、「友引の日には葬式をしない」など、そこにはたくさんの伝統的な「世間のルール」が存在する。日本の同調圧力の強さの根底には、これらの「世間のルール」があり、たとえそれが合理的根拠のない「謎ルール」であっても、日本人はじつに律儀にこれを守ってきた。
 意外に思われるかもしれないが、実はヨーロッパでも12世紀以前には、日本の「世間」と同じような人間関係があり、人々はたくさんの「世間のルール」にしばられていた。しかしこの「世間」は、都市化やキリスト教の支配などによって次第に消滅し、「法のルール」から構成されるsociety に徐々に変わったのだ。
 これが明治時代の近代化=西欧化とともに輸入され、1877年ごろに「社会」と翻訳された。当時の人がsociety をそれまであった「世間」と訳さなかったのは、それが人間の尊厳や権利や人権と一体の概念であり、江戸時代まではなかったことが、はっきりと分かったからだ。
 この社会というコトバは、いまは普通に使われるが、現在でも実体がともなっていない。「世間」が消滅した現在の欧米には、「法のルール」から成り立つ社会しかないが、明治以降の日本は、伝統的な「世間」と、近代的な社会の二重構造に支配されることになった。この二重構造がやっかいな点は、土台である「世間」の上に社会がちょこんと乗っかったかたちをしていて、社会(法のルール)はあくまでもタテマエで、「世間」(のルール)こそホンネとして機能していることにある。

  大事なのは、合理的根拠のない
  「謎ルール」を整理し、
  廃止すること

 「世間」とは「日本人が集団になったときに発生する力学」なのだが、学校もまた典型的な「世間」にほかならない。だからそこにも、社会(法のルール)がタテマエで、「世間」(のルール)がホンネの二重構造がある。これが学校の息苦しさを生み出しているのだ。
 やや細かく見れば、学校間において「横並び意識」に代表されるような同調圧力があり、この種の同調圧力は学級間や教員間においても存在する。また子ども間においても、私のいう「プチ世間」から生じる同調圧力がある。これらの総体によって日本の学校は、教育を通じて「世間」を再生産する巨大な装置となっているのだ。こうした負の再生産を断ち切るために、学校は変わる必要がある。
 息苦しさという点では、たとえば、社会の「法のルール」に照らせば、人権侵害としかいいようがないブラック校則。ここでは合理的根拠のない「謎ルール」がホンネで、「法のルール」はタテマエにすぎないために、学校では人権というコトバにさっぱりリアリティがない。
 また教員間で、「みんなが仕事しているのに先に帰ることは許されない」という同調圧力が生ずるのは、「みんな同じ時間を生きている」(共通の時間意識)という「世間のルール」が、勤務時間の終了という「法のルール」より優先されるからだ。
 いま息苦しさから脱出するために必要なのは、学校という職場で作動している「法のルール」と「世間のルール」を峻別し、合理的根拠のない「謎ルール」を整理し、廃止することだ。そうすれば学校は、もう少し風通しがよくなるのではないか。

posted by satonaoki at 09:47| NEWS

2021年10月09日

「ダイヤモンドオンライン」(2021年10月8日公開)に「死刑廃止の世界に取り残される『死んでおわび』の日本文化」が掲載されました。

 「ダイヤモンドオンライン」(2021年10月8日公開)に「死刑廃止の世界に取り残される『死んでおわび』の日本文化」が掲載されました。
 日本で圧倒的に死刑制度が支持される理由は、伝統的「世間」が強固にのこっているからであることを論じました。とくに、現在1年9カ月以上死刑執行ゼロの「死刑執行モラトリアム」が続いているなかで、いま必要なことは、日本政府がこの「死刑執行モラトリアム」を対外的に宣言し、死刑制度の是非の議論を進めるべきだと主張しました。
 以下でご覧になれます。
https://diamond.jp/articles/-/283992
https://news.yahoo.co.jp/articles/1282eade50aa3c7cc44d99de2d81e805961b661a?page=1

 内容は以下の通りです。

   死刑廃止の世界に取り残される「死んでおわび」の日本文化
   佐藤直樹:九州工業大学名誉教授・評論家

  死刑制度残るのは先進国で日米だけ
  バイデン政権は7月、一時停止表明

 特定危険指定暴力団である工藤会最高幹部の総裁に死刑が言い渡された福岡地裁の法廷で、被告人が裁判長に「あんた、生涯後悔するぞ」といって脅したことが話題となった。
 判決を下した裁判官の「安全」をどう守るのか、などと新たな議論を呼んだが、暴力団幹部の罪の重さは別にして、OECD(経済協力開発機構)の加盟国のうち死刑を執行しているのは、いまや日本と米国だけだ(韓国は死刑制度はあるが停止国)。
 なかでもEU(欧州連合)は、死刑廃止が加盟の条件となっているし、米国も、すでに州レベルでは半数以上が廃止・停止している。
 しかも今年の7月になってバイデン政権が、トランプ政権が再開した連邦レベルでの死刑執行を一時停止した。このことはほとんど話題にならなかったが、注目すべき大きな出来事だ。
 日本は世界の流れのなかで“孤立”する可能性がある。
   
    内閣府調査、8割が「死刑支持」
    近年は支持の割合が増える

 日本は、法律上、死刑制度があり、死刑を執行している「死刑存置国」だが、海外に目を転じれば、近年では死刑廃止・停止国が7割以上という圧倒的多数となっている。先進国のなかでも、日本だけ死刑制度が存続するのはいったいなぜなのか?
 2018年7月、1カ月の間に13人ものオウム事件関係の死刑囚が大量執行された際にも、ほとんど死刑制度の是非の議論が起きず、日本では廃止・停止の気配がまるでない。
 ちなみに、5年に一度、内閣府が実施している世論調査(2019年)では、「死刑もやむを得ない」が80.8%を占める。逆に「死刑は廃止すべきである」はわずか9.0%だ。
 ただしこの調査には、質問や回答の表現に問題もあって、死刑が「やむを得ない」と思うかと質問するのなら、死刑は「廃止すべき」かではなく「廃止もやむを得ない」と思うか、と聞くべきで、設問自体がフェアではない。
 とはいえこの調査によれば、死刑支持の割合は、04年の81.4%以降、4回連続で80%を超え、近年では圧倒的多数となっている。
 他の先進国とは異なり、日本では死刑制度が多くの人々から支持され、死刑制度の是非の議論もきわめて低調なことはたしかである。
 なぜなのだろうか。

   死や犯罪は「ケガレ」
   伝統的な意識が強固に残る
 
 この点でとても興味深いのは、作家の辺見庸さんの議論だ。
 辺見さんは『愛と痛み』のなかで、東京拘置所で、刑場の位置や死刑囚が立たされる場所が、丑寅(北東)つまり鬼門の位置にあり、それは「穢れが立つ場所」であって、これが「他の死刑存置国とは明らかに異なるところ」だと指摘している。
 日本では、死や病気や犯罪などが「ケガレ」とみなされる。
 このことは昨今の新型コロナウイルス禍で感染者がまず悪いことをしたかのように扱われた例があったことでもわかる。コロナという病気になること自体がケガレであるとの意識が、「世間」のなかに根強くあったからだ。
 また日本では、犯罪加害者家族が「世間」に謝罪しなければならないが、それは罪を犯した本人だけでなく家族もまたケガレとみなされるからだ。
 思うに日本は、先進国のなかでは異様に古い文物を残す唯一の国といえよう。
万葉の時代から1000年以上存続する、「世間」という伝統的人間関係もその一つだ。
 「世間」には、たくさんの俗信や迷信から構成される「呪術性のルール」があり、日本人はこれを実に律儀に守っている。死刑はきわめて古くからある刑罰であり、ケガレという伝統的意識が強固に残っていることが、現在も死刑制度が支持される一つの大きな理由となっているものと思われる。

   「体感治安の悪化」背景に
    2000年以降、厳罰化の流れ

 二つ目の理由は2000年代以降、顕著になってきた「厳罰化」の流れだ。
 先述した内閣府の調査では、90年代の死刑支持の割合は、94年73.8%、99年79.3%と70%台だったが、00年代以降に入ると80%台へと確実に増えている。
 この背景にあったのは、ここ20年ぐらいの「世間」の同調圧力の肥大化による、異質なものを徹底して排除する「厳罰化」への流れである。
 この時代に、日本の社会に大きな変化が起きたのだ。
 たとえば、1999年、当時18歳の少年が母親と生後11カ月の子どもを殺した「光市母子殺害事件」では、被害者の家族がマスコミを通じて、被告に厳しい処罰を求め、少年被告は1・2審で無期懲役だったものの、06年最高裁で審理が高裁に差し戻され、08年には広島高裁で異例の死刑が言い渡された。
 その間、差し戻し審で少年被告の弁護を担当した弁護士が、「社会の敵」として「世間」から激しいバッシングを浴び、前代未聞の弁護士会への懲戒請求まで行われた。
 死刑判決は、このような異質なものを徹底して排除する「厳罰化」の台頭という、「世間」の空気を反映したものだと思う。
 こうした空気の変化を背景に、日本では2000年ぐらいから刑事司法における「厳罰化」が進んだ。
 裁判では死刑や無期懲役の判決が増加し、立法上でも、01年の危険運転致死傷罪の新設、05年の刑法改正で、有期懲役・禁錮の上限が20年から30年に大幅に引き上げられ、10年には殺人事件など重大犯罪についての時効が廃止された。
 注意したいのは、この「厳罰化」の背後に治安の悪化があったわけではないことだ。
 たとえば殺人の犯罪率は、現在では一番多かった1950年代の1/5ぐらいで、戦後一貫して減少している。しかもいま、この殺人の犯罪率は、先進国のなかで最も低い。意外に思われるかもしれないが、現在という時代は歴史上、最も治安がよく最も安全な時代だといえるのだ。
にもかかわらず日本で「厳罰化」が起きたのは、実態とは異なる「体感治安」の悪化があったといわれる。
 つまり殺人の数自体は少ないのだが、「津久井やまゆり園事件」のような凶悪で不可解な事件が起きたときに、メディアが大きく取り上げ、時にセンセーショナルに報じることによって、人々の不安感があおられ、犯罪が増え治安が悪化しているとの体感が広がったのだ。
 要するに、ここ20年ぐらいの「世間」での「体感治安」の悪化による「厳罰化」の流れが、依然として死刑制度が支持され続ける、もう一つの理由となっている。

   「日本の文化」理由に
    国際社会を説得できるのか
 
 日本の死刑制度に対しては、国連機関をはじめ国際社会からの厳しい批判がある。
 それに対して、たとえば2002年に森山眞弓法相(当時)は、「欧州評議会オブザーバー国における司法と人権」という国際会合で、死刑は日本の文化であり、「死んでおわびをする」という慣用句にはわが国独特の、罪悪に対する感覚があると反論している。
 だが、それが「日本文化」だと、国際的に死刑制度を正当化できるのかは、疑問だ。
 私が危惧するのは、これはあくまでも内輪向けの議論にすぎず、海外に対してはまるで説得力を持たないのではないか、ということだ。
 たとえばEUは死刑廃止の理由を、すべての人間には「生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵」だからだと説明している。
 こうした考え方や批判に対して日本政府はどう答えるのか。きちんと正面から答えなければならない、国としての責務があるはずだ。

   1年9カ月「執行ゼロ」続く
   国民的議論を深める好機
 
こうした状況でここにきて刮目すべきなのは、日本ではこの9月末まで、2019年12月26日の最後の死刑執行以来、約1年9カ月間、死刑執行ゼロの状態が続いていることだ。
 この事実上の「死刑執行モラトリアム」が続く理由として、(1)2020年の黒川元検事長の賭けマージャン問題などの検察庁の不祥事があったことや、(2)「平和の祭典」にはふさわしくないということなのだろうか、今年夏に東京オリンピック・パラリンピックが開催されたこと。そして(3)、新型コロナ禍の影響が指摘されている。
 ちなみにアムネスティによれば、20年は新型コロナの影響で世界における死刑執行件数は前年比で26%減になっているそうだ。また執行件数は近年、減少傾向で20年は過去10年で最小水準だったという。
 日本で、この「1年9カ月間」が画期的なのは、民主党政権時代の2010〜12年の約1年8カ月間執行ゼロを抜いて、1990年〜92年の約3年4カ月間執行ゼロ以来、実に30年ぶりの長い期間、執行が停止されているという歴史的意味を持っているからだ。
 ところで冒頭の暴力団幹部の裁判は、裁判員の身の安全が気になった向きもあると思うが、実はこの裁判は、裁判員に危害が及ぶ恐れがあるとして、きわめて例外的なのだが、裁判官だけで裁かれたものだ。
 それでは日本では死刑判決が出るような重大事件は、必ず裁判員裁判になることをご存じだろうか?
 たとえば、昨年3月に横浜地裁で死刑判決が下された「津久井やまゆり園事件」も裁判員裁判だった。
 この公判では、理由は明らかにされていないが、判決前に2人の女性裁判員が辞任する事態が起きている。
 裁判員に選ばれるのは普通の市民であり、誰しも死刑判決に関わる可能性がある。
 死刑判決を出す場合、米国の陪審裁判では陪審員の全員一致が原則だが、日本は裁判員・裁判官全員の多数決で決めるので、死刑判決へのハードルがかなり低い。
 公判で被害者の遺体写真を見て、ストレス障害になり国を訴えたようなケースもあり、裁判員の心理的負担は想像以上に大きい。
 こうしたことを考えても、死刑制度がどこまで存続の意義を持つものなのか、議論を改めてする必要があるのではないか。
 オリンピックなどが終わり、岸田新政権が発足し近く衆議院選も行われる政治日程のなかで、ドサクサに紛れて死刑執行が再開される可能性もある。
 しかし、この機会にいまこそ必要なのは、日本政府が対外的にはっきりと「死刑執行モラトリアム」を宣言し、その間に死刑制度の是非の国民的議論を進めることではないか。

(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹) 

posted by satonaoki at 10:15| NEWS