2022年12月27日

2022年12月26日(月)ネットのAbema Primeの番組にスタジオで生出演しました。

2022年12月26日(月)午後10時15分ごろより、ネットのAbema Primeのニュース番組にスタジオで生出演しました。
テーマは、「『エスカレーターで歩くな』は建前?同調圧力を議論」です。世間学の観点から、同調圧力について議論しました。
内容は以下の通りです(期間限定で無料で視聴できます)。
https://abema.tv/channels/abema-news/slots/9BWPF8vSxpwYAT
posted by satonaoki at 18:32| NEWS

2022年09月13日

「ダイヤモンドオンライン」(2022年9月13日公開)に「安倍元首相国葬の危うさ、社会より『世間のルール』優先で要求される忖度」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2022年9月13日公開)に「安倍元首相国葬の危うさ、社会より『世間のルール』優先で要求される忖度」が掲載されました。
以下でご覧いただけます(ただし有料記事です)
https://diamond.jp/articles/-/309643

テキストはほぼ以下の通りです。
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 安倍元首相国葬の危うさ、社会より「世間のルール」優先で要求される忖度

         評論家/九州工業大名誉教授 佐藤直樹


●国葬の必然性や法的根拠
●岸田首相の国会説明でも曖昧なまま

安倍晋三元首相の国葬についての世論の賛否がわかれ、むしろ批判的な声が強まる中、岸田文雄首相は8日、国会の閉会中審査に自ら出席、国葬実施への理解を求めた。
だが説明は、法的根拠にせよ、費用の総額にせよ、なぜ内閣・自民党合同葬でダメなのかにせよ、これまでのくり返しが多く、説得力があったとは到底思えない。
とはいえ、どんなに反対の声が広がっても、国葬の実施形式が変更されたり中止されたりすることはなさそうだ。
この間の国葬をめぐる岸田政権の混乱と迷走をどう考えればよいのか。
「世間」と「社会」という二つの人間関係を峻別する「世間学」の視点から、この問題を読み解くと、権力基盤の保持のため仲間ウチに「気を使う」という、日本独自の「世間のルール」が発動されていることが見えてくる。

●岸田首相の大誤算
●統一教会問題で「世間」の空気一変

 
日本で「世間」という人間関係は、『万葉集』の時代から1200年以上の歴史をもっている。そこには利害や情緒でつながった仲間ウチの関係や他人の目などの、沢山の伝統的な「世間のルール」がある。
 たとえば、「大安の日に結婚式をし、友引の日には葬式を避ける」という「世間のルール」は、それに反したからといって法的に罰せられることはないが、ほとんど法と同様の強制力をもっている。
つまり「世間のルール」に反した場合には、「世間」から排除されるという「処罰」を受けることになる。日本人は「世間を離れては生きていけない」と固く信じているために、現在でもこれにがんじがらめに縛られている。
 安倍元首相の国葬問題も、この視点から考えればわかりやすい。
元首相の銃撃事件からわずか6 日後の 7月14日に、岸田首相は国会にたいする説明もなく国葬実施を表明し、22日には閣議決定をおこなった。
参議院選挙には勝利したものの、未曾有の物価高にほとんど何も対策を取らなかったことなどで、支持率の低下傾向に悩む岸田政権にとっては、献花台に長蛇の列ができるというような、元首相への「世間」の同情と共感の空気を読んで、国葬を政権浮揚の絶好の機会と考えたようだ。
 ところがこれがまったくの誤算だったのは、その後、旧統一協会と安倍元首相や自民党との癒着が、連日メディアで報道されることで、「世間」の空気が一変したことだ。
国葬反対デモや反対署名が活発におこなわれ、 8月に新聞・放送など報道各社がおこなった世論調査では、そのほとんどで国葬反対が賛成を上回るという、国論が二分される事態となって、大慌ててで、首相自ら「丁寧な説明」を始めたということだろう。

 かつて欧州にも「世間」が存在した。しかし、12世紀前後からのキリスト教の支配などによって、「世間のルール」が否定されることで、「世間」は法のルールから構成される「society」 に変わった。だから現在の欧米には、日本のような「世間」は存在しない。
 日本には、明治時代の近代化=西欧化の過程で、「society」 が輸入されたが、それは江戸時代には存在しなかったので、「社会」と新たに翻訳された。同時に憲法をはじめとする近代法も輸入された。つまり社会と法はワンセットであり、英語では「ルール・オブ・ロー」(法の支配)というが、この社会を構成する「社会のルール」の基本が法であったのだ。
問題なのは、このときから日本は、土台としての「世間」と、その上にちょこんと乗っかった上部構造としての「社会」という奇妙な二重構造に支配されるようになったことである。
 しかもやっかいなのは、近代的な「社会」がタテマエにすぎず、伝統的な「世間」がホンネだという構造が生まれたことだ。
つまり、法から構成される「社会のルール」はあくまでもタテマエであり、「世間のルール」こそホンネだとする構造が成立し、それが現在に及んでいるのだ。

●安倍「お友達政権」時代と同じ手法
●保守派に気を使い「社会のルール」軽視

 これが戦後の政治のなかで、きわめて深刻なかたちで露出したのが、安倍政権の時代だ。
自らに近しい政治家を大臣などで重用するなど「お友達政権」と揶揄されたが、私がとりわけ異様に感じるのは、安倍元首相が自らの権力基盤の維持のため、仲間ウチへのロコツな利益供与ととられるようなことを行い、一方で、与党の政治家や官僚などで、首相や首相側近の意向を慮る「政権への忖度」が行われたことだ。
そして「世間のルール」を発動させることで、「社会のルール」である法を無視したり、ねじ曲げたりすることがたびたび起きた。
 たとえば、財務省の公文書改ざんに関わった職員を自死にまで追いこんだ「森友学園事件」。仲間ウチへの公金横流しというべき「加計学園事件」。公金を使った地元支持者の大量ご招待と、内閣府による招待者名簿の破棄疑惑という「桜を見る会」などだ。
 つまりここでは、自分のミウチの「世間」のことは安倍元首相のアタマにあるのだが、その外にあるはずの社会がまったく抜け落ちている。これを端的に「政治の劣化」といってよいが、根底には「世間」が肥大化し「社会」が消滅している状況がある。
その結果が、「社会のルール」の基本である法の無視・ねじ曲げだった。これが、どれほど多くの国民の間に、政治にたいする絶望感や不信感を広げたかは、はかり知れないものがある。
 今回の岸田政権での巨額の公金支出をともなう国葬の閣議決定も、政治手法という点では安倍政権と変わらない。
「国葬令」があった戦前ならともかく、法的根拠が不明であり、まさに閣議決定による法の無視・ねじ曲げ、つまりは「社会のルール」の軽視にほかならないからだ。
 閣議決定が私物化されるようになったのも安倍政権時代だった。
私がとくにア然としたのは、2020年の黒川高検検事長の定年延長だ。それまでは検察首脳の人事は検察捜査の公正を担保するために検察にまかせる慣例、いわば「社会のルール」が尊重されていたが、それをねじ曲げ、「桜を見る会」などでの疑惑がかけられるなか、自己保身のためにミウチを検事総長にしようとした、まったく無理筋の閣議決定だった。
今回、岸田首相が国葬を決めた理由についても、「安倍氏と親しい保守系議員に気を使った」という政治ジャーナリストの指摘や、麻生太郎・自民党副総裁が、保守派が騒ぎ出す、これは理屈じゃないんだよと、首相に何度も電話で迫ったという話がメディアで報じられた。
ここでも、自らの権力基盤の維持のため仲間ウチに「気を使う」という、「世間のルール」が発動されている。岸田首相のアタマにも、「世間」はあっても「社会」があるとは思えないのだ。

 ●「弔意表明」で懸念される忖度
 ●有形無形の同調圧力かかる恐れ
 
国葬の実施では、ほかにも気になることがある。弔旗の掲揚や黙とうをめぐる「忖度」だ。
 岸田首相は 8月31日の記者会見で、国葬の際の「弔意表明」について、「国民に強制すると誤解を招くことがないように閣議了解は行わず、地方公共団体や教育委員会などに対する弔意表明の協力の要望も行う予定はない」と表明した。
ところが会見では同時に、「各府省における弔意表明については、葬儀委員長決定とし、弔旗を掲揚し、葬儀中の一定時刻に黙とうをするとした」と述べている。
 この内容をよくみると、弔意表明を「国民に強制」しないという前段は、「各府庁における弔意表明」は強制するという後段によって、事実上ホゴになっているといえる。
一見支離滅裂のようにも思えるが、岸田首相がここで言いたかったのは、ようするに、「弔意の表明は強制ではないが、忖度せよ」ということではないか。
昨今のコロナ禍では、欧米では命令と罰則という強制力をもつ法を発動して対処した。ところが日本では、法的強制力のない自粛と要請というゆるい対策で十分だった。「世間のルール」である同調圧力が、法と同じような強制力を発揮したからだ。
「強制ではないが、忖度せよ」という岸田政権もそうであるが、決定した自らの責任は取りたくないので、「社会のルール」である法を発動せず、「世間」の同調圧力を悪用するのはいつもの政権の手口である。
 国葬に反対する東京弁護士会は、会長声明で、「安倍元首相の『国葬』に対する忖度から、公的機関のみならず民間機関に対しても(吉田茂元首相の「国葬」時と−引用者注)同様の有形無形の同調圧力がかかることは容易に予想され、弔意の表明の事実上の強制が行われかねない」と指摘している。
 驚くべきことだが、 7月に行われた安倍元首相の家族葬の際も、だれも命令も指示もしていないのに、東京都をはじめとする複数の地方自治体が高校などに半旗掲揚を求める依頼文書を流している。
これは明らかに忖度であって、なんら命令や指示といった「社会のルール」である法にもとづくものではない。そして一部自治体では、「弔意の表明」への忖度がすでに始まっている。
ところで2017年に「森友学園事件」の籠池泰典元理事長は、外国特派員協会の記者会見で、国有地売却をめぐる外国紙の記者の質問に答えて、「(周囲が−引用者注)安倍首相また安倍首相夫人の意志を忖度して動いたのではないか」と語ったことがあった。
このときに通訳が忖度を英訳できずに、「直接言い換える表現はありません」とサジを投げた。英訳できないのは、それが「世間のルール」に属する言葉であり、欧米には「世間」が存在しないからだ。
私の考えでは、これはたんに「他人のキモチを推察する」ことではない。「子どもを忖度する」とはいわないからだ。正確にいえば、「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して行動を決定する」ことで、ここには明らかに上下の権力関係が潜んでいる。
法を基本にした「社会のルール」が支配する欧米社会の組織体では、命令や指示が原則であり、原理的に忖度はありえないのだ。
 忖度は相手を思いやるという、日本の「美しい伝統」との意見もあるが、私はそうは思わない。
命令や指示なしに忖度が要求されることで、責任の所在がとことん曖昧にされるからだ。
国葬の実施でこの忖度がまたまん延することを、私は強く危惧している。

posted by satonaoki at 12:25| NEWS

2022年07月05日

「ダイヤモンドオンライン」(2022年7月4日公開)に「知床観光船事故でも『土下座謝罪』、日本独自の儀式がなくならない理由」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2022年7月4日公開)に「知床観光船事故でも『土下座謝罪』、日本独自の儀式がなくならない理由」が掲載されました。
https://diamond.jp/articles/-/305550

内容は以下の通りです。
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遊覧船沈没事故から2カ月
運航会社は事業停止に
 
14人が死亡し、12人がいまだ行方不明の知床遊覧船の沈没事故から約2カ月。国交省は6月16日に遊覧船の運航会社の事業認可を取り消す異例の処分を行った。
 今後は刑事責任がどのように問われるかだが、「世間」の批判は、事故の4日後、記者会見した運航会社の社長が土下座で謝罪した時点がピークで、それで“一件落着”したかのような空気もなくはない。
 不祥事や事故などが起きると、土下座で謝罪が繰り返されるのはなぜなのか。
 これには日本特有の背景がある。

社長の土下座に批判噴出でも
「一件落着」の空気漂う

 観光船の沈没事故では、「知床遊覧船」の桂田精一社長が4月27日に記者会見に臨み、冒頭で「皆さんこの度はお騒がせして大変申し訳ありませんでした」と謝罪し、約2時間半の会見中計3回土下座した。
 この社長の土下座について、ネットなどでは賛否両論があったが、「あまりに軽い」「本当に謝る気がない」「完全にパフォーマンス」「しておけばいい感しか伝わってこない」など、多くの批判が噴出した。
 だが不思議なのは、かなりの人が社長の土下座が本心からの謝罪ではないと思っているにもかかわらず、土下座をすることでなんとなく「世間」が納得し、いつしか批判が収束して「一件落着」の空気が漂ってしまうことだ。

欧米では理解不能の「dogeza」
「世間」への独特の謝罪文化
 
歴史的に土下座による謝罪が目立つようになったのは1990年代後半以降で、96年に薬害HIV訴訟で「ミドリ十字」の幹部が、被害者の原告に詰め寄られ土下座したころからだとされる。
 また、2019年にタレントの田口淳之介さんが、大麻取締法違反で逮捕され保釈された直後に、報道陣に土下座して謝罪したのは記憶に新しい。
 欧米では、土下座は「dogeza」とそのまま訳されており、そもそもあり得ないし、欧米人にはまったく理解不能の行為だ。
 日本で一定の批判があるにもかかわらず、いつまでも土下座がなくならないのはなぜなのか?
 私は、これには三つの理由があると考えている。

第一の理由は、その根底に日本に独特の謝罪文化があることだ。
 たとえば、日本で「すみません」という言葉は、謝罪以外の場面でも頻繁に使われる。心理学者の榎本博明さんの言うように、何かあったときに日本人がすぐに「すみません」という謝罪の言葉を多用するのは、場の雰囲気を和やかにし、相手がそれを壊すような態度を取りにくくして、物事をスムーズに運ぶためだ。
 謝罪会見の冒頭の「お騒がせして大変申し訳ありません」というセリフは、ネットでも「違和感を覚える」と話題になったが、実は、日本では、法的に責任があろうがなかろうが、ただちに「世間」に対して謝罪することが必須であるということだ。
「世間」が謝罪を要求するのはどうしてか?
 大きな事件や事故が起きたときに、「世間」の人々の共同感情が不安定になる。これが「世間を騒がせた」という状態だ。
 この不安定な状態を解消し、害された共同感情を元に戻すために、「世間」は企業などに「世間を騒がせて申し訳ない」という謝罪を求めるからだ。
 ところがアメリカでは、法的責任があるような場合でも、企業は会見で釈明はするが、めったに謝罪しない。うっかり謝罪すると法的責任を問われかねないからだ。
 それでも、「アイムソーリー」といって謝罪しなければならないことがあるだろう。病院で患者が亡くなったときに、医師が家族に「アイムソーリー(お気の毒です)」と言うような場合だ。
 そこで、カリフォルニア州などでは、医師が「アイムソーリー」と言っても、後に医療過誤訴訟で法的責任を問われないようにする、「アイムソーリー法」がわざわざ制定されているそうだ。
 やたらに「すみません」が使われる日本の謝罪文化は、欧米に比べるとかなり特異な文化であり、これが土下座のなくならない土壌となっているのだ。

自己肯定感」が低い日本人
個性や自己主張を封じられる教育

 第二の理由は、日本人の「自己肯定感」の低さである。
 欧米で土下座による謝罪が考えられないのは、それが、人格の不可侵性に由来する「人間の尊厳」に反する行為とみなされるからだろう。
「人間の尊厳」は民主主義の基本原理であり、たとえば、ドイツ基本法(憲法)は第1条の冒頭で、「人間の尊厳は不可侵である」と規定している。
 日本では、この種の「自尊感情」を生み出すはずの「自己肯定感」が、海外と比較して突出して低いことが、いくつかの調査で指摘されている。
 たとえば、2017年の国立青少年教育振興機構の高校生への調査では、日本で「私は価値のある人間だと思う」と回答したのは44.9%にすぎないが、アメリカは83.8%、中国は80.2%、韓国は83.7%だった。
 また、若者(13歳〜29歳)にたいする2018年の内閣府の調査でも、「自分自身に満足している」と「自分には長所があると感じている」に、「そう思う」と回答した割合は、それぞれ10.4%と16.3%だった。
 ところが、海外におけるこれらの質問への回答は、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンのいずれも、ほぼ30%台から50%台の間であり、日本は他国と比較して圧倒的に低い。
 そうなるのは、日本人が家庭で、欧米のように「他人とは違う個性的な人間になれ」と教育されるのではなく、「人に迷惑をかけない人間になれ」と言われて育つからだ。個性がつぶされるわけだから、これでは「自己肯定感」は育たない。
 また学校でも、ブラック校則に象徴されるように、画一的な集団行動が求められ、目立った行動を取ると「出るくいは打たれる」という格言の通り、徹底的につぶされる。
 さらに、職場でも年休を取りづらいなど、周りと同調することを強いられる。
 その結果、はっきりと自己主張するような人間は排除されるので、「自己肯定感」が低くなり、「どうせ自分なんか」と考えるようになる。
 これが、土下座のような、明らかに「自尊感情」をひどく傷つけるような行為を受け入れやすい理由となっているのだ。

謝罪の場にも神が存在
同調圧力で「最終兵器」化
 
第三の理由は、謝罪の場には神が存在することだ。
 もともと日本社会は欧米諸国と比べると、圧倒的に古い俗信・迷信を残しているため、日本人はきわめて信心深い。
 たとえば、コンビニによって仕掛けられた節分の「恵方巻き」の習慣が、2000年代以降にあっという間に全国に広がったのは、実は日本人が信心深いからだ。
 しかも一神教が原則の欧米と違って、多神教の日本では「八百万(やおよろず)の神」というように、森羅万象、至るところに神が宿っている。
 ここから、意外に思われるかもしれないが、謝罪の場にも神が存在することになる。つまり謝罪は神にも向けられている。それゆえ、土下座による謝罪を受け入れないのは難しい。
 たとえば、人気マンガ『どげせん』では、土下座を武器にひたすら頭を下げて要求を押し通し、難題を切り抜けてゆく高校教師が描かれている。
 この作品で象徴的なのは、教師が土下座するシーンがきわめて神秘的に、まるで宗教的儀式のように描かれていることだ。土下座の言葉は神主の祝詞のように響き、一種の呪力を持つことになる。
 土下座の場には神が存在するがゆえに、周りから「まあ、許してやれよ」という同調圧力が生じ、謝罪を受け入れざるを得なくさせるのである。
 確かに私たちは、誰かに突然土下座をされ謝罪された場合、それを理不尽な「暴力」だと感じる。こうした圧力を感じるのは、それが本心からの謝罪でないとしても、土下座という儀式が、「謝罪の最終兵器」として圧倒的な有効性を持っているからだ。
 土下座が「謝罪の最終兵器」であるために、近年は企業の謝罪だけでなく、個人の間でも手軽に使われるようになっている。圧倒的な効果があるという点で、これを好意的に見る人もいるかもしれない。
 だが私は、土下座をするのもさせるのも、「自尊感情」をひどく傷つける、「人間の尊厳」に反する行為であり、即刻やめるべきだと思っている。
 そうすることで、多少なりとも日本人の「自己肯定感」の意識のあり方を、変えてゆけるのではないかと思う。

(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹)
posted by satonaoki at 20:40| NEWS