2021年04月01日

「政経電論」(2021年3月10日公開)に「日本人が大事にする『世間』の正体-コロナ禍と日本人論」が掲載されました。

 「政経電論」(2021年3月10日公開)に「日本人が大事にする「世間」の正体〜コロナ禍と日本人論」というインタビュー記事が掲載されました。聞き手は香港在住のジャーナリストの武田信晃さん。
  以下でご覧になれます。
https://seikeidenron.jp/articles/18300

内容は以下の通りです。

●世間」と一体化しようとする日本人

新型コロナウイルスに感染し自宅療養をしていた東京都内の30代女性が1月下旬に自殺した事件があった。遺書には「自分のせいで周りに迷惑をかけてしまい申し訳ない」と書かれていたという。

筆者はカナダと香港に住んだ経験があるが、海外では感染した人を「大変だね、不運だったね」と元気づけ、本人もそのようとらえる。それだけに、自殺するほど精神的な負担を強いられる日本の状況に首をかしげたくなった。

「海外では人種差別はあっても病気に罹った人を差別することはありません。コロナ禍当初、東洋人がコロナにかかると差別されましたが、あくまで人種差別でした。

しかし、日本人の彼女はコロナに罹ったことで他人に迷惑をかけたと大きな精神的負担を感じてしまった。それはなぜか? 日本の場合は世界中にどこにもない『世間』というものが根底にあるからです。同調圧力が強いことも関係しています。

よく有名人が『世間をお騒がせしました』と謝罪しますが、日本人は当事者でもないのに『迷惑をかけられた』と『世間』と一体感を感じ、共同体の秩序を乱したことに対する謝罪を求めるのです」(佐藤直樹さん、以下同)

日本人は小さいころから「他人に迷惑をかけるな」と教育される。親から、他人に迷惑をかけることが世の中で一番悪いこと、というのが刷り込まれる。日本人が最初に「世間」を知る瞬間だ。

「『世間』は英語にも訳せない言葉で、コミュニティでもソサイエティでもワールドでもありません。『世間』という言葉自体は『万葉集』の山上憶良の歌に出てきますが、日本人が集団になったときに出る力学的なものと定義しています。スマホなどの電子的なコミュニケーションがこれだけ発達した今でも、おそらく日本人は1000年前と同じ人間関係の作り方をしてきています」

例えば、結婚式は大安に集中する。お中元はもらったら送り返す。そうしなさいとは法律に書かれていないが、人間関係をスムーズにするために皆そうする。「そのためにみんなが守っているルールは山のようにあり、特にもらったらお返しするという“お返しルール”が『世間』においては重要」だという。

●近代化の過程で「社会」を作れなかった

これらのルールは海外では通用しないが、実は11世紀、12世紀ぐらいまではヨーロッパでも「世間」があったという。それを宗教、つまりキリスト教が他宗教を排斥する過程の中で「社会」に変えていった。

同様に日本でも近代化によって「世間」は少しずつ崩れ「社会」に変わっていくと思われたが、グローバル化によって復活し逆に強固になるという現象、バックラッシュが起きる。

「1998年以降、日本では自殺者が2万人台から3万人台に増加し、うつ病も増えていきます。戦後のグローバル化によって競争が激化し、その後入ってきた新自由主義によって強い個人たれと言われ、それまでとのギャップからストレスがたまって息苦しさを感じるようになっていった結果です。徐々に同調圧力が強まっていって、この一年で一気に爆発したというのがコロナ禍に表れていると思います」

このころから叫ばれるようになった「自己責任論」は、もともとは金融用語で、自分で出した損失は自分で責任を持てという意味だった。いま一般的に使われている「自己責任論」は、それを自業自得的なニュアンスに置き換えられたものだ。

これらの背景には、「社会」の概念をインストールできなかった近代化の歴史が影響していると佐藤さんは言う。

「日本は明治に入り近代化を進めました。欧米から『ソサイエティ』という言葉が入り、『社会』という言葉を造語します。しかしその当時、日本に『社会』はありませんでした。では、150年たった今、日本に『社会』はあるかといわれると、無いのです。

社会は『インディビジュアル=個人』が集まってできますが、当時の日本には『個人』の言葉はあっても実態がありません。その代わりにいるのが“個人ではなない人”です。それはまさに現代のような“悪目立ちしない”在り方です」

明治以降、日本は海外からの法制度や政治制度の輸入には成功したが、その根底にある社会、人間関係の作り方の輸入はうまくいかず、それまでに存在していた集団、つまり『世間』が残ることになる。その大きな要因は、「社会」を醸成するキリスト教が日本においては大きな広がりを見せなかったことだという。

宗教というのは人間の価値観の軸となるものの一つだ。日本人は無宗教に近いと思っていたが、佐藤さんは「日本人は信心深い」と言う。

「日本人はクリスマスを祝った後に神社でお参りするなど、常に何かを信じている多神教ですね。アミニズム(生物・無生物問わず魂が宿ると考える)に近いと思います。一方、世界標準のキリスト教やイスラム教、本をただせば仏教は一神教です。この一神教が『社会』を作るのです。つまり、キリスト教において神に告解(懺悔)することで個人が形成され、そこから社会が生まれました」

日本人が多神教だったとは驚きだが、そういう意味では、日本はそもそも「社会」をインストールできない文化背景だったといえるかもしれない。

●コロナ禍に見る「世間」的な出来事

一時期、コロナ禍を最前線で働く医療従事者に拍手を送るというのがあったが、海外に比べて日本ではどこか義務的だったり、広がりがなかったりした。佐藤さんは「それは拍手がパブリックな行為だから」と指摘する。なお、英語でいう『Public』は日本語でいう“公共”と“市民の総意”という意味を内包するが、日本語でいう“公共”は“市民の総意”を内包しない。

「日本人は皆どこかの『世間』に属していて、自分の『世間』の状態をとても気にします。『世間』はウチとソトが隔てられた“閉じた”もので、パブリックが存在しません。日本人は『世間』のウチでのことは積極的にやりますが、ソトのことはどうでもいいと思う。一方、『社会』は原理的に閉じておらず、そこにはパブリックという概念が存在します。『世間』は『社会』より狭い。そのため医療従事者への拍手も一部にとどまったのです」

では、「自粛警察」はどうだろうか。

「彼らは自分たちを『世間』の代表だと思っています。自分たちを正当化できるのは、自分たちは他人に迷惑をかけていないから。つまり正義感です。自粛警察は同調圧力の典型。同調圧力は世界中に大なり小なりありますが、日本はコロナではっきりと出てきました」

「世間」の強力なルールである「他人に迷惑をかけないこと」はこういった局面に強く表れるようだ。どういった条件なら同調圧力が強まるのだろうか?

「正直、わからないところはあります。ネットの場合、下手をすれば何でもたたかれる可能性がありますし、ときには寄付ですら売名行為とたたかれます。出る杭は打たれる……の典型ですが、人間平等主義といって彼らにとって人間は均質でなければならないのです。

その一方で日本的な身分にも束縛されます。年上年下、名刺による肩書、昔なら士農工商です。そういった身分差と均質でなければならないというねじれが、妬み、ひがみを生み、たたかれることにつながっているのだと思います」

●「世間」の効能

一方、『世間』がもつ抑止力がポジティブに表れたのは東日本大震災のときだという。

「非常時には法律が崩壊するので海外では略奪が起こります。しかし、日本では避難所でも“あなたは〇〇担当”というように、避難所がうまく回るように『世間』を作った結果、冷静に行動でき、略奪は起こらず、海外からも賞賛されました。

『世間』のルールは法律よりも強く、日本人はそれを律儀に守ってきたのです。日本は安全で、他国より殺人率が低いというのは、『世間』の圧力の強さによって犯罪にまで至らない、ということが言えます。

コロナ対策についても、海外では社会のルールは法のルールと同義なので感染症対策はマスク着用義務など罰則をつけてやります。それでも守れない人がたくさんいます。日本は1回目の緊急事態のとき、自粛は要請のみで罰則はありませんでした。それでも皆行動に移し、感染を抑えたことはすごいことです」

ある種の危機においては、「世間」の同調圧力は治安維持に貢献するようだ。ところで2月の改正特別措置法で、ついに日本でも命令に従わない場合、過料などの行政罰としての罰則が設けられたが、日本人自らが私権を制限する罰則規定を設けることを望んだのには違和感を覚えた。

毎日新聞の2021年1月16日に行った世論調査では、特措法や感染症における罰則強化が「必要だ」との回答した人は51%で、「必要ない」の34%を上回っている。

佐藤さんはこの結果について、「世界の感染状況から不安になり、日本人の間に、罰則を設けてでも感染を抑えたほうがいいという空気が広がりました。今回の法改正はそれを政治が読んだためでしょう」と話す。

また、罰則の効果については、「過剰にルールを守ると思います。懸念するのは、過料だろうが何だろうが法律を守らない人=犯罪者と思いがちなので、感染者差別が地下に潜る可能性もあります」と分析。

そう語る佐藤さんから見た日本人に適切なコロナ対策とはどんなものだろうか。

「大勢の人が、罰則が法制化される前から外出を控えていたのは事実です。日本人は真面目なのですから、このままでいいと思うのです。この事象は世界的にもすごいことなのですから」

●東京五輪は、開催されたら楽しむ空気に変わる

コロナ禍での東京オリンピック・パラリンピックの開催について、1年延期した2021年になっても、開催中止や延期を主張する人は多い。佐藤さんはこれを「日本は呪術的でもあるので『こんな時期に……』と言う空気が形成され、これには逆らえないから」と話す。もし強行した場合どうなるだろうか。

「開催されたらされたで楽しみますよ。そういう空気になるからです。空気というのは非合理的で、持続せず、変わるものです。日本人は思想や信条があまりないので、空気が変われば自分も変わってもいい、と思うのです」

海外と比較すると日本人は合理性に欠けるように思えてしまうが、アフターコロナに向けては前向きな空気が欲しい。息苦しい日本の状況が変わっていくにはどうしたらいいのだろうか?

「おかしいと思ったことは、空気を読まずに抗うことかもしれません。ちょっとした勇気が必要ですが。そうすれば、風通しがよくなって生きやすくなると思います。

SNSの在り方も考えたほうがいいでしょう。発信する前にもし実名アカウントなら投稿をしてもいいのかと一旦立ち止まって考えてみてください」

少し前だが、検察庁法改正案についてネットで大きな反発があり、同国会での成立を見送り廃案になったことがあった。佐藤さん曰く、「極めて例外的ですが、ネットが『社会』として機能した例です。日本に全く『社会』がないわけではないということですね」と。ネット社会の世の中だが、正しく使えば今後の希望の光にもなり得るように感じた。


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posted by satonaoki at 20:43| NEWS

2021年02月26日

「朝日新聞」(2021年2月3日)の「交論 罰則の是非は」のコーナーに「犯罪扱い、感染者への差別助長」が掲載されました。

2021年2月3日「朝日新聞」の「交論」のコーナーで、コロナ関連法に罰則を付与することについて、「犯罪扱い、 感染者への差別助長」という長文のインタビュー記事が掲載されました。聞き手はオピニオン編集部の桜井泉記者です。私は反対派ですが、賛成派として平井伸治鳥取県知事が登場しています。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14786649.html
posted by satonaoki at 13:45| NEWS

「ダイヤモンドオンライン」(2021年2月21日)に「時代錯誤のコロナ罰則導入、背景に日本特有の『世間のルール』」が掲載されました。

「ダイヤモンドオンライン」(2021年2月21日公開)に「時代錯誤のコロナ罰則導入、背景に日本特有の『世間のルール』」が掲載されました(ただし有料記事です)。
https://diamond.jp/articles/-/263304

内容は以下の通りです。

 新型コロナウイルスの感染拡大に対応して罰則を新たに設けた改正特別措置法と改正感染症法が2月13日から施行された。
 専門家などからの強い批判があったにもかかわらず、入院拒否や保健所の調査拒否、また休業や営業時間の短縮の命令に応じない事業者に罰則を科すものだが、改正案は国会では与党と一部野党との「密室談合」でロクに議論もされないままあっという間に成立した。
 検討されるべき課題は多岐にわたるが、とりわけ改正感染症法は感染者差別を一段と強めかねない重大な問題をはらんでいる。

 刑事罰(懲役・罰金)が行政罰(過料)に修正されたとはいえ、端的にいって、感染症法に罰則を付けることの最大の問題点は、現在でも感染者が犯罪者扱いされている状況なのに、文字通り犯罪をおかしたとみなされ、感染者に対する差別や排除を一層強めることだ。
 感染者が病気にかかったという理由だけで差別されるのは、人種差別的なものはあるが、欧米ではまず聞かない。日本ではいったいなぜ、感染者が差別やバッシングにさらされるのか? 
その第一の理由は、日本特有の同調圧力である、「他人に迷惑をかけるな」という「世間のルール」にある。
 日本はもともと同調圧力の強い国だが、その根底にあるのは現在では欧米には存在しない「世間」である。
「世間」とは人間関係のあり方を表すコトバだが、すでに『万葉集』に登場し、1000年以上の歴史がある。スマホなど電子的コミュニケーションが発達した現代でも、じつは日本人の人間関係のあり方は1000年前と変わらない。
 「世間」には細かな「世間のルール」が山のようにあり、日本人にとって一番恐いのは「世間」から排除されることなので、みんなが几帳面にこれを守っている。世界に冠たる犯罪率の低さもその反映だ考えられる。このルールのなかに「他人に迷惑をかけるな」がある。
 私もそうだったが、多くの日本人は家庭で親から、「他人に迷惑をかけない人間になれ」とか、「世間から後ろ指をさされない人間になれ」などと言われて育つ。欧米だったら、「他人と違う個性的な人間になれ」と言われることころだ。そうやって育ってくると、「他人に迷惑をかけること」が世の中で一番悪いことだと考えるようになる。
 そこから新型コロナの場合も感染したこと自体が、まさにこの「世間のルール」に反する「他人に迷惑をかける」行為となる。ただウイルスに感染しただけで感染者が「法のルール」に反したわけでもないのに、あたかも犯罪をおかしたかのようにみなされるのだ。

 第二の理由は、感染者が「ケガレ」とみなされるからだ。もともと「世間」はきわめて古い時代の産物であるため、伝統的な俗信・迷信のたぐいがきわめて多い。その「世間のルール」のなかに呪術的な「ケガレの意識」がある。
 たとえば、葬式に行ったさいに手渡される小さな袋に入った塩は帰宅した時に家に入る前に自分にまく。これは死者がケガレと考えられ、家のなかにそれを持ち込まないために塩でそれを清める意味がある。
この意識は指摘されないとなかなか気づかないが、きわめて強固に日本人に根付いている。ここから感染者もまたケガレとみなされ、それが外延化して医療従事者やその家族などへの差別も頻発するようになったのだ。
 歴史的みれば、感染者がケガレとみなされ、隔離や差別などの人権侵害を受けた典型的事例がハンセン病だ。じつは感染症法の前文には、「過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である」と書いてある。
 まさに「過去に」ではなく、現実に起きているのがコロナ感染者差別なのだ。どうしても罰則を付けたいのなら、この法律の前文を削除しなければ整合性がない。国会で複数の野党がこの改正法案に賛成したのにはあぜんとしたが、無知蒙昧としかいいようがない。
 漫画家のヤマザキマリさんは月刊誌で、日本では感染者を出すことが犯罪のように扱われるが、イタリアでは感染者が顔を出してSNSなどで積極的に発言していることを指摘し、「いわゆる感染者差別というのは全くと言っていいくらい、ない。病気での差別は数百年前までのプリミティブな人間のやることだと捉えている」と述べていたが、感染者に対する意識が日本とは全く違う。
 じつは欧州でも、12世紀ぐらいまで「世間」が存在しケガレの意識があったのだが、現在では消滅した。ここでイタリア人が「数百年前までのプリミティブな人間」と言っているのは、この歴史的記憶があるからだ。ところが日本では、このケガレの意識が現在まで連綿と存在し続け、感染者を差別し排除する圧倒的な同調圧力になっているのだ。

 さらに感染者を差別する第三の理由は、ここ20年ぐらいの間に日本を席巻した「自己責任論」にある。
私は、1998年あたりが日本社会の大きな変化のターニングポイントになっていると思うが、この年に自殺者が突如2万人台から3万人台に激増し、労働者の支払給与総額が下がり始め、年功序列・終身雇用制の日本的経営が崩れ始める。
 この背景にあったのが、世界的なグローバル化=新自由主義の台頭だ。新自由主義は自己責任を前提とする。職場では成果主義が導入され、労働者が互いの競争に追い込まれ、うつ病や過労死が増えたが、それらも個人の責任だとされるようになった。
 とくに01年以降の小泉政権の規制緩和・構造改革路線では、この自己責任がしきりに強調された。ボランティア活動をしていた日本の若者が反政府勢力に人質としてとらえられた04年の「イラク人質事件」では、当時、政府高官が口にした自己責任論がきっかけとなり、人質やその家族が「世間」による苛烈なバッシングにさらされた。
 また00年前後から刑事司法では厳罰化の傾向が顕著になり、犯罪率の上昇などの治安の悪化がなかったにもかかわらず、少年法や刑法の改正が頻繁におこなわれた。犯罪は自己責任だとして、社会全体が犯罪者に対してきわめて不寛容になっていったのだ。
 私はこれらの変化は、日本社会で連綿と続いてきた「世間」が欧米流の「強い個人」を要求する新自由主義の無理難題に逆切れし、抑圧性や同調圧力を強めた結果だと考えている。その抑圧性を象徴するコトバが、社会的弱者へ投げつけられた自己責任であった。
 いま感染者がネットなどで叩かれる場合に、「こんな非常時にあちこち遊び回っているからだ」などと非難され、感染したのは「自業自得」だと中傷される。つまり「感染したのはお前が悪い」というわけだ。この自業自得というコトバこそ、この20年の間に席巻した自己責任を日本流に言い換えたもので、感染者を非難する一種の呪文となったのだ。

 とくに日本では、SNSのツイッターでの匿名率が75%ぐらいで、お隣りの韓国を含めて海外の30〜40%台と比較するとダントツに高いことも、感染者への誹謗・中傷が手軽になされるようになった一因だと思う。
そうなるのは、実名で発信すると同調圧力があまりに強いため、叩かれるのを極端に恐れるからだ。ところが匿名になると「旅の恥はかき捨て」の傍若無人状態となり、また同時にスマホが、「世間のルール」に従わない人を監視、中傷するコンパクトなかつての「隣組」や「国防婦人会」となってしまったのだ。
このような感染者差別に対して、いったいどうしたらよいのか? 
 最も大事なことは、行政が実効性ある手立てをきちんと講じることである。法務省の人権擁護機関は、感染者差別は人権侵害だと一応いっているようだが、たんなるお題目にしか聞こえない。
 この意味では昨年12月に施行された「和歌山県新型コロナウイルス感染症に係る誹謗中傷等対策に関する条例」はまさに注目に値するものだ。この条例が画期的なのは、罰則はないが、インターネット上で感染を言いふらしたり、名誉を傷つける投稿をしたりした者に県が削除を指導・勧告したり、プロバイダーに削除協力を求めたりすることができる点だ。
 感染者差別を禁止するこれほど積極的で実効性のある条例は、おそらく日本で初めての試みである。このような行政の新しい動きが今後、全国に広がればよいと切に願う。

posted by satonaoki at 13:26| NEWS